Act.26 死地に向かう目
Side グルド
夜にまた来る、と言ったのは俺だ。
言った以上は行かねばならない。
そう思って客間の前まで来たものの、扉の前で一度だけ足が止まった。
こんな時間に淑女の部屋を訪ねるのはどうなんだ。
いや、どうなんだも何も、たぶん普通に叱られる。
あの人なら、昼間の調子で「礼儀がなっておりません」と眉をひそめるだろう。
だが、それでも話をしないわけにはいかなかった。
攫われた経緯も。
修道院と孤児院の資金のことも。
中抜きの件も。
あの男が何を考えていたかも。
全部、隠したままにはできない。
俺は小さく息を吐いてから、扉を叩いた。
「……オリバー嬢」
わずかな間があって、内側から「はい」と返る。
その声を聞いて、少しだけ胸の奥が緩んだ。
扉を開けて入った瞬間、今度は別の意味で息が止まりかけた。
「……っ」
部屋の中に立っていたオリバーは、薄い夜着姿だった。
白く、柔らかな布。
肌を隠してはいる。隠してはいるのだが、驚くほど薄い。
月明かりと室内の灯りを拾って、身体の線をやわらかく浮かび上がらせている。
なんつう格好だ。
危うくそのまま口に出しかけて、俺は慌てて視線を逸らした。
いや、違う。
違うだろう。
そういうことではない。
自分だって男だ、などと心の中で言い訳しかけて、即座に振り払う。
ふざけるな。
相手は、つい昨夜攫われて戻ったばかりなんだぞ。
俺は咳払いを一つして、どうにか平静を装った。
「……身体は?」
「大丈夫です」
返ってきた声は、驚くほど整っていた。
だが、その整い方が妙に気になった。
「入っても?」
「どうぞ」
それで、部屋の中へ進む。
オリバーは寝台の脇に立ったまま、きっちりこちらを見ていた。
いつも通りだ。
いつも通りのはずだ。
なのに、何かが違う。
俺はその違和感をうまく言葉にできないまま、椅子を引いて腰を下ろした。
「昼間、詳しい話は夜にすると言っただろ」
「ええ」
「だから話す」
オリバーは静かに頷く。
その頷き方すら整いすぎていて、胸の奥が落ち着かなかった。
俺は一つずつ、できるだけ順を追って説明した。
修道院と孤児院への資金が途中で止められていたこと。
辺境伯家の名で出されていたはずの寄付が、一銭も届いていなかったこと。
そのせいで、修道院は公爵家からの寄付と、オリバーが教えたレース仕事で辛うじて回っていたこと。
さらに、その中抜きをしていた家臣筋の家が、オリバーを愛人として差し出せと院長に迫っていたこと。
院長がそれを拒み続けていたこと。
そして、今回の攫いもその延長にあったこと。
話している間、オリバーは一度も口を挟まなかった。
ただ、表情だけが少しずつ、少しずつ暗くなっていく。
もともと色の白い顔が、灯りの下でますます青く見える。
指先も、いつの間にかぎゅっと組み合わされていた。
「……というわけだ」
全部話し終えて、俺は低く息を吐いた。
「例の男はもう押さえてある。中抜きの件も、攫いの件も、全部まとめて償わせる。修道院と孤児院の冬支度もこっちで手を入れてる。お前が心配することじゃない」
そこまで言ってから、自分でも言葉が足りないと気づいた。
心配するな、で済むなら苦労しない。
そんな顔をしている相手に言う台詞じゃない。
だが、他に何と言えばいいのか分からなかった。
部屋の中に、しんとした沈黙が落ちる。
「……そう、ですか」
ようやく返ってきたのは、そんな一言だけだった。
その声も、やはり整いすぎていた。
俺は立ち上がる。
「今日はもう休め」
それ以上無理に話を続けるのはよくない気がした。
あの人は疲れている。身体も、心も。
「また明日――」
言いかけたところで、服の裾が引かれた。
「……っ」
振り返る。
オリバーの指だった。
細い指先が、俺の上着の端を掴んでいる。
「どうした」
聞いた瞬間、背筋にぞわりとしたものが走った。
オリバーの目が、妙だった。
暗いわけではない。
泣いているわけでもない。
むしろ不自然なほど静かで、澄んでいた。
あれだ。
殿で死を覚悟した人間がする目に、似ている。
逃げ道がないと知って、それでも前を向くしかない時の、ひどく肝の据わった目。
覚悟を決めた者の目。
だからこそ、ひどく危うい。
ぞっとしかけた、その時だった。
オリバーが小さく口元を歪めた。
にこり、と。
礼儀作法を教えていた時に見せていた、あの完璧な淑女の笑みだった。
「グルド様」
その呼び方に、一瞬だけ思考が止まる。
「お慕いしております」
嬉しいはずの言葉だった。
待ち望んでいたはずの言葉だ。
本来なら、胸が焼けるほど喜んでもおかしくない。
なのに、身体の血の気が引いていく感覚があった。
何故だ。
何故、こんなにも嬉しくない。
直感的に分かった。
この言葉を、言葉通りに受け取ってはいけない。
「オリバー」
低く呼ぶと、彼女は微笑んだまま首を傾げる。
「何があった?」
「何も」
即答だった。
「ただ、素直になっただけです」
素直、というよりは。
肝が据わった。
それも、引き返さない類の覚悟で。
愛しい女からの言葉に喜びたいのに、頭の中では警報が鳴っていた。
違う。
何かが違う。
「お願いです」
オリバーの指が、今度はするりと俺の上着を辿る。
「私を、『グルド様』のものにしてください」
その瞬間、身体が先に動いた。
一気にその細い身体を引き剥がす。
肩を掴んで距離を取らせると、オリバーはわずかに目を見開いた。
「オリバー嬢、」
反射的にそう呼ぶ。
すると彼女は、今度は本当に穏やかに笑った。
「なんです、『グルド様』」
そこで、はっきりと違和感の正体に気づいた。
いつもと逆だ。
俺が『オリバー』と呼べば、『オリバー嬢です』と直される。
『グルド』と呼べと言っても、『バントス辺境伯様』と距離を置かれる。
なのに今は。
自分から『グルド様』と呼び、
こっちには『オリバー嬢』と呼ばせる。
近づいているようでいて、実際には遠い。
なんだ、この気味の悪さは。
ただ、一つだけは分かる。
ここで手を出したら、何かが終わる。
だが、ここで引けば、永遠にオリバーは手に入らない。
そんな予感まで同時にあった。
どうすればいい。
何が違う。
「グルド様?」
静かな声だった。
その静けさが、余計に怖い。
「オリバー嬢」
意識して、ゆっくり言う。
「何があった? いや――あいつに何を言われた」
「何も」
また同じ答え。
「ただ、素直になっただけです」
違う。
違うだろう。
今のこれは、素直なんかじゃない。
腹を括って、どこかへ行こうとする人間の顔だ。
俺は一歩踏み込んだ。
オリバーの肩が、びくりと揺れる。
「じゃあ、言い方を変える」
喉が少し乾いていた。
それでも、目を逸らさずに言う。
「なんで死地に向かう人間の目をしている」
その瞬間、オリバーが息を呑んだ。
完璧だった淑女の笑みが、初めてわずかにひび割れる。
やはり、そうだ。
間違っていない。
俺はその小さな揺らぎを見逃さないよう、さらに低く続けた。
「誰に何を吹き込まれた」
「……っ」
「何を諦めた?」
オリバーの唇が震える。
それでもまだ、笑おうとしていた。
その意地が痛々しくて、腹が立つほど愛しかった。
「オリバー嬢」
今度は、できるだけ静かに呼ぶ。
「そこで綺麗に笑って終わらせるな」
彼女の睫毛が、ひどくかすかに震えた。




