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悪女と呼ばれた月下の真珠は、野獣辺境伯の妻になりました  作者: まるちーるだ


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Act.25 思い出だけでも

Side オリバー


目が覚めた時、最初に見えたのは見覚えのある天井だった。


薄い色の漆喰。

窓辺の長いカーテン。

整えられた家具。

客間として与えられていた、この部屋。


夢かと思った。


あの冷たい石の床も。

鉄の扉も。

ねっとりと絡みつくような手も。

全部、悪い夢だったのではないかと、一瞬だけ本気で思った。


けれど、そうではなかった。


オリバーはゆっくりと手を持ち上げ、自分の身体を確かめる。


服は綺麗な寝間着に替えられていた。

乱れもなく、清潔で、肌触りもよい。


けれど、手首を見た瞬間、胸の奥が冷たくなった。


赤い痕が、くっきりと残っていた。


縄の痕だ。


恐る恐る胸元へ指を差し入れる。

寝間着の隙間から触れた肌にも、帯状の痕が残っている。

腕を胴へ巻きつけるように縛られていた、その名残。


夢ではなかった。


私は、攫われた。

縛られた。

閉じ込められた。


でも――無事だった。


そのはずなのに、身体の奥にはまだあの感触が残っている。


絡みつくような手。

値踏みするような視線。

甘ったるく耳に張りつく声。


思い出しただけで、ぞわりと皮膚が粟立った。


思わず顔を上げると、窓が目に入った。


バルコニーへ続く扉には、外開きの鍵に加えて、さらに鎖が巻かれていた。

乱暴なようでいて、そうではない。


閉じ込めるための処置ではなく、外からの侵入を防ぐためのものだと、すぐに分かった。


自分を出さないためではない。

もう二度と、奪わせないためだ。


そのことに気づいた瞬間、喉の奥が痛くなる。


オリバーはそっと寝台を降りた。


足裏に触れた絨毯は、驚くほど温かかった。

柔らかく、静かで、石畳の冷たさを少しずつ忘れさせていく。


その時だった。


こんこん、と控えめなノックが響いた。


「は、はい」


返事をすると、すぐに扉が開く。


そこに立っていたのは、グルドだった。


「起きたか。良かった」


いつもなら、返事のあとに入らないと申し上げますわ、と注意するところだ。


けれど、今日はその気になれなかった。


むしろ、迷わず入ってきてくれたことに、妙に安心してしまった。


あの男とは違う。


そう、身体のどこかが理解している。

扉の向こうから現れたのがグルドだったというだけで、張りつめていたものが少し緩む。


「オリバー?」


アイスブルーの目が、こちらを見る。


あの絡みつくような手を持った男とは違う、真っ直ぐで、優しい視線だった。


オリバーは、その優しさに戸惑った。


怖くない。

嫌ではない。

だからこそ、どうしていいか分からない。


「とりあえず、夜にまた来る」


グルドはそう言った。


「詳しい話はその時に。できれば今日は休んでくれ」


それだけ言うと、彼はそれ以上踏み込まずに部屋を出ていった。


扉が閉まる。


静かになる。


オリバーはしばらく、その場に立ち尽くしていた。


そしてようやく、自分の胸の内にあるものを認める。


自分は間違いなく、グルドが好きだ。


もう、それは誤魔化しようがなかった。


助けに来てくれたからではない。

優しくされたからでもない。

もっと前から、少しずつ、確かに心は動いていた。


礼儀作法を教えながら。

叱りながら。

呆れながら。

時々褒めて、時々褒められて。


満月の夜、抱き締められて、『死ぬのだけはやめてくれ』と言われた時には、もう決定的だったのだろう。


好きだ。


けれど、それと同じくらい確かなことが、もう一つある。


自分は、グルドに相応しくない。


除籍された身。

公爵令嬢ですら、もうない。

王都では悪女だの毒婦だのと呼ばれ、修道院へ送られた女。

しかも、攫われて、あんな目に遭った。


そんな自分が、辺境伯夫人になれるはずがない。


許されるとしたら、せいぜい情けをかけられることだけ。

陰に置かれる存在にしか、なれない。


そこまで考えて、胸の奥が鈍く痛んだ。


それでも。


それでも、気持ちは抑え込めないのだとも分かっていた。


ならば――。


一夜の情けを、貰おう。


その思い出だけあれば、自分は生きていける。


修道院も、ここも、自分には優しすぎる。

ぬくもりを知ってしまえば、もっと欲しくなる。

だからこそ、これ以上はいけない。


北の最果ての修道院。


最初に、オクレール公爵ステファンが、母と自分に提示した、戒律の厳しい修道院。

あそこなら、余計なことは考えなくて済む。

寒さも、祈りも、沈黙も、全部が罰になる。


それでいい。


そうだ、それで全部まとまる。


オリバーは、呼び鈴を鳴らした。


すぐにメイドが一人、静かに入ってくる。


「オリバー様、いかがなさいましたか」


「……手紙を、書きたいのです」


そう言うと、メイドは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに頭を下げた。


「かしこまりました。気晴らしになりますようでしたら、すぐにレターセットをお持ちいたします」


やがて運ばれてきた上質な便箋と封筒、ペンとインクを前にして、オリバーは机へ向かった。


相手は、ステファン。


書く内容は決まっている。


――前にご紹介いただいた修道院への馬車を、用意していただきたいのです。


それだけの文章を書くのに、妙に時間がかかった。


筆先が震える。

インクが滲みそうになる。

それでも、どうにか最後まで書き上げる。


読み返せば、ひどく事務的な文面だった。

それが却ってよかった。


書き終えた手紙を封に入れ、メイドへ渡す。


「……オクレール公爵家へ、届けていただけますか」


「承知いたしました」


何も問わず、メイドは頭を下げた。


その沈黙がありがたくて、少しだけつらかった。


扉が閉まる。


部屋に一人残されて、オリバーは小さく息を吐いた。


これでよかったのだ。


馬車が来るまで待つ。

それまではこの屋敷にいる。

そして、来たら去る。


ただ、その前に。


グルドの話を受けるつもりの行動をしよう。


辺境伯夫人になるつもりではない。

そんな夢は最初から見てはいけない。

けれど、愛人になる気があるように見せることはできる。


その一夜だけ。

その思い出だけ。


あの人の腕の温もりを、ちゃんと覚えてから去りたい。


最低だわ、とオリバーは思った。


本当に、最低だ。


好きだと認めておきながら、正面から向き合う気はない。

妻にはなれないと思い込み、思い出だけ貰って逃げようとしている。


けれど今の自分には、それが精一杯だった。


机の上で、指先がかすかに震えている。


攫われた夜の恐怖は、まだ消えていない。

身体に残った縄の痕も、あの男の目も、『今夜』という言葉の不快さも、全部がまだ身体の中にいる。


それでも。


それでも、思い出すのはあの人の腕だ。


助けに来てくれた時の、強くて、温かい腕。

『当たり前だ』と言ってくれた、あの声。


あれを、一度だけでも自分のもののように抱き締めて眠れたなら。


それだけで、この先の寒さも、祈りも、罰も、耐えられる気がしてしまった。


オリバーはそっと目を閉じた。


思い出だけでも。


それだけでいい。

それだけで、きっと生きていける。


そう、自分に言い聞かせながら。


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