Act.24 間に合った手
Side グルド
砦へ辿り着いた時には、もう隠し立てをする時間すら残されていなかった。
馬蹄が地面を叩き、辺境伯家の旗が朝の風を裂く。
先頭を駆ける俺の顔を見た瞬間、砦を守る兵士たちの顔色が変わった。
門の上から怒号が飛ぶ。
誰かが慌てて鍵を外す音。
軋む木と鉄。
そして――門は、こちらが体当たりする前に開いた。
「オリバーを探せ!」
低く放った声が、砦の中へ鋭く響いた。
辺境伯家の騎士たちが一斉に散る。
元々砦に詰めていた兵士たちまで、弾かれたように動き出した。
あまりの勢いに、誰一人として逆らおうとしない。
その時だった。
「辺境伯様!」
砦の奥から、一人の兵が転がるように駆け込んできた。
「昨夜お越しになった客人は、半地下の牢をお使いです!」
その一言で十分だった。
「案内しろ!」
兵の返事も待たずに走り出す。
石造りの廊下を踏み鳴らし、階段を駆け下りる。
後ろで誰かが何かを叫んでいたが、もう耳には入らない。
半地下へ近づくほど、空気は冷たく、湿っていった。
灯りも乏しく、石壁が息苦しいほど近い。
その時だった。
聞こえた。
「助けて、グルド様!!」
胸の奥で何かが爆ぜた。
その声は掠れていた。
泣き声に近かった。
それでも間違えようがない。
オリバーの声だった。
「オリバー!」
突き当たりの鉄扉へ、迷わず体当たりする。
びくともしない。
ならばと、渾身の力で蹴りつけた。
――ガンッ!!
鈍い音が地下へ響く。
蝶番が悲鳴を上げる。
もう一度。
――ガンッ!!
三度目には、鉄扉ごと内側へ吹き飛んだ。
その向こうで見たものに、視界が赤く染まった。
石牢の床。
冷たい壁。
そして、夜着を乱され、縄で縛られたまま、必死に身を捩っているオリバー。
涙で頬を濡らし、それでもなお抵抗している。
目の前には、あの令息がいた。
振り返ったその顔と、目が合う。
その瞬間、怒りが一気に爆発した。
「貴様ァ!!」
低いというより、もう唸り声に近かった。
考えるより先に踏み込み、そのまま令息の顎へ拳を叩き込んだ。
鈍い音とともに、男の身体が横へ吹き飛ぶ。
壁へぶつかり、そのまま床へ転がった。
一発で沈んだ。
本当なら、そのまま何発でも叩き込んでいた。
だが、脳裏を過ったのは、凛とした女の声だった。
――淑女に暴力は見せるものではありません。
ふざけるな。こんな時に。
そう思ったのに、身体はそれ以上そちらへ動かなかった。
俺はすぐにオリバーの方へ向き直った。
「オリバー!」
膝をついて、その身体へ手を伸ばす。
近くで見た彼女の姿に、喉の奥が焼けるみたいに痛んだ。
縄が手首へ食い込み、赤くなっている。
肩は震えている。
目は涙でぐしゃぐしゃなのに、それでも俺を見る目だけはまだ消えていなかった。
「もう大丈夫だ。来た」
自分でも驚くほど声が低く、けれど静かだった。
震える指で縄を解く。
固い結び目が憎たらしいほどほどけにくい。
手持ちのナイフで切ってしまえば、オリバーの身体がぐらりと傾いた。
「っ、オリバー!」
抱き止めるより早く、彼女の方がこちらへ縋りついてきた。
腕が、胸へ回る。
震えたまま、ぎゅうとしがみついてくる。
その瞬間、ぽろぽろと涙がこぼれた。
さっきまで必死に耐えていたのだろう。
縄がほどけた途端、堰を切ったように泣き出した。
「グルド様……っ、グルド様……!」
その呼び方が、今はやけに胸に刺さる。
「怖かったな」
そう言うと、オリバーは答えられなかった。
ただ、震えながら何度も頷く。
それだけで十分だった。
俺はその身体を、今度は壊さぬよう、それでも逃がさぬよう、強く抱き締めた。
「遅くなった」
言いながら、自分の歯が食いしばられているのが分かる。
遅い。
本当に遅い。
あと少し遅ければと思うだけで、胃の底が冷たくなる。
オリバーは胸元へ顔を埋めたまま、かすれた声で呟いた。
「……来て、くださった」
その言葉に、胸が痛んだ。
来るに決まっている。
そんなのは当たり前だ。
そう思うのに、あの人はきっと本気で、来ない可能性まで考えていたのだろう。
「当たり前だ」
低く答える。
「お前を置いていけるか」
腕の中の身体が、ぴくりと揺れた。
けれど今は、それ以上何も言わせたくなかった。
「もう大丈夫だ」
繰り返す。
「俺がいる」
背中へ回した手に、まだ細かな震えが伝わってくる。
それでも最初よりは、少しずつ力が抜けていくのが分かった。
部屋の外から、ようやく騎士たちの足音が近づいてくる。
砦の兵を押さえたのか、複数の声が重なった。
「旦那様!」
「ご無事ですか!」
俺はオリバーを抱いたまま、振り返りもせずに言った。
「こいつを縛れ。口も塞げ。目を覚ましても二度と動けないようにしておけ」
床に転がったままの令息を、視界の端で睨む。
一発で済ませてやったことを、今さら少し後悔した。
だが、まだ終わっていない。
終わらせるつもりもない。
「絶対に逃がすな」
「はっ!」
騎士たちが一斉に動く。
縄の音。
呻き声。
怒号。
全部が遠く聞こえた。
今はそれより、腕の中の重みの方が大事だった。
オリバーはまだ俺へしがみついたまま、呼吸を整えようとしている。
夜着の乱れた肩を見て、胸の奥でまた怒りが燃え上がる。
その肩へ、そっと上着を掛けた。
「立てるか」
小さく問うと、オリバーは少しだけ間を置いて頷いた。
だが、身体はまだ震えている。
「……無理するな」
そう言って、俺は答えを待たずに抱き上げた。
「え……」
掠れた声が漏れる。
けれど抵抗はなかった。
むしろ、ほんの少しだけこちらへ身を寄せてくる。
それだけで、胸の奥の何かがまた軋んだ。
もう二度と、こんな目に遭わせるものか。
石牢を出る時、すれ違いざまにもう一度だけ、床の男を見下ろす。
「貴様は後で、きっちり償わせる」
返事はない。
それでいい。
今は、こいつより先に、腕の中のオリバーを地上へ戻す方が先だ。
半地下の階段を上がる。
一段ごとに、空気が少しずつ温かくなる。
オリバーは目を閉じたまま、俺の胸元へ額を預けていた。
泣き腫らした睫毛が、頬に張り付いている。
「……グルド様」
弱い声が、胸に落ちる。
「何だ」
「助けて、くださって……ありがとう、ございます……」
そこでまた、言葉が途切れた。
喉の奥で涙を堪えているのが分かる。
「礼は後だ」
短く返す。
「まずはお前を休ませる」
石造りの階段の先に、朝の光が見えた。
あの光の下まで出れば、もうこの冷たい牢も、気味の悪い手も、オリバーを縛る縄も遠ざかる。
そう思った時、ようやく少しだけ、息がつけた。
だが本当の意味で終わったわけではない。
これは取り戻しただけだ。
ここから先、オリバーについた恐怖をどう剥がすか。
どう守るか。
どうやって、もう二度と自分の手の届かぬ場所へ落とさずに済ませるか。
考えることは山ほどある。
それでも今は、ただ一つだけでよかった。
間に合った。
その事実だけが、かろうじて俺を繋ぎ止めていた。




