Act.23 辺境伯が来る
Side 某家令息
最初は、勝ったと思っていた。
ようやく手に入れたのだ。
あれほど手を伸ばしても届かなかった女を、とうとう自分の手の届く場所へ閉じ込めた。
半地下の石牢は冷える。
だが、女を隠すには悪くない場所だった。
天井近くの小窓は高く、扉は鉄。声を上げたところで、まともに外へは届かない。
何より、ここは辺境の砦だ。そう簡単に人目につく場所ではない。
扉の前に立ち、令息はゆっくりと口元を緩めた。
黒髪。
アメジストの瞳。
誘惑する身体。
怯えた顔すら美しい女。
オリバー・オクレール。
王都で『悪女』だの『毒婦』だの、好き勝手に呼ばれていたくせに、いざ目の前にしてみれば、あれほど清廉ぶった空気を纏っているのだから腹立たしい。
だからこそ欲しかった。
泥に落ちた真珠のくせに、泥に染まり切らない。
そのところが、たまらなく癪で、たまらなく欲しかった。
修道院に閉じ込められたと聞いた時は、好都合だと思った。
家も後ろ盾も失い、金もなく、頼る先もない。
少しばかり援助をちらつかせれば、あとはどうとでもなると思っていた。
だが院長は頑なだった。
痩せた身体で前へ出てきて、オリバーを渡せと迫る自分を、あの老女は真正面から睨み返したのだ。
――あの子は渡しません。
今思い出しても腹が立つ。
誰の金で回っていると思っている。
誰が少し指を曲げれば、あの修道院も孤児院も冬を越せなくなると思っている。
それなのに、あの女たちはオリバーを守った。
ならば、こちらで奪うしかないではないか。
「今夜には、もう少し素直になっていただけるでしょう」
誰もいない廊下で、甘ったるい声が自分でも心地よかった。
怯えていた。
震えていた。
あの女は間違いなく、自分を恐れていた。
それでいい。
最初は皆そうだ。
恐れ、拒み、震える。
だが逃げ場がないと分かれば、やがて縋るようになる。
そうなってから優しくしてやればいい。
泣き顔で見上げるようになってから、いくらでも愛してやれる。
その時だった。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が響いた。
一人ではない。二人、三人と走ってくる。
令息は眉をひそめる。
「何だ、騒がしい」
次の瞬間、部屋の扉が乱暴に叩かれた。
「坊ちゃま!」
使用人の声だった。
いつもの媚びた調子ではない。明らかに上擦っている。
「何だ!」
苛立って扉を開けると、飛び込んできた男は青ざめきっていた。
後ろには見張りの兵まで立っている。どちらも顔色が悪い。
「辺境伯家より……っ」
その一言に、胸の奥がひやりと冷えた。
だが、令息はすぐに鼻で笑う。
「何だ、それは。寄付金の件か? 今さらだな。証拠でも持って来たのか?」
「い、いえ、そうではなく……」
男がつばを飲み込む。
その喉が鳴る音が、やけに大きく聞こえた。
「辺境伯家の騎馬が、こちらへ向かっております」
数瞬、意味が分からなかった。
「……は?」
「街道を全速で。かなりの数です。旗印も確認されました。バントス辺境伯家のものに間違いありません」
空気が変わった。
令息の口元から、笑みが消える。
「馬鹿な」
真っ先に出たのは、否定だった。
「たかが女一人だぞ」
言ってから、自分の声が少し掠れていることに気づく。
「い、いや……違う。あり得ない。辺境伯家が、たかが女一人のために砦へ兵を出すはずがない」
そうだ。
そんなことがあるものか。
たしかにオリバーはオクレール公爵家の娘だ。
だが修道院へ追いやられた曰く付きの女でもある。
辺境伯家にとっては、ただの客人のはずだ。
あのグルド・バントスが、わざわざ兵を率いてまで取り返しに来るような相手ではない。
――ない、はずだ。
「先頭は誰だ」
知らず、声が低くなっていた。
使用人はびくりと肩を震わせる。
「そ、それが……」
「誰だと聞いている!」
「バントス辺境伯ご本人かと……!」
その瞬間、足の裏から血の気が引いた。
グルド・バントス。
その名を、辺境で知らぬ者はいない。
魔獣討伐で前線を駆けた男。
帝国との小競り合いで生き残り続けた男。
そして、一度本気で怒らせたら終わりだと、酒場の酔漢ですら声を潜める男。
令息の脳裏に、昔見た姿がよぎる。
まだ若く、だがすでに誰よりも剣の冴えた青年。
金色の髪に、凍った湖みたいな青い目。
笑わない時のあの目は、人ではなく獲物を見る獣のそれだった。
その男が、来る。
自分を。
いや、この砦を。
「……まだ、門は破られていないな?」
声がわずかに震えた。
兵がすぐに首を振る。
「ま、まだです。ですが、ものすごい速さでこちらへ……」
「砦だぞ」
自分へ言い聞かせるように吐き捨てる。
「ここは砦だ。簡単には落ちん。相手が辺境伯でも同じだ。いくら何でも、私兵で踏み込める話ではない」
そうだ、理がいる。
証拠がいる。
辺境伯家が動くには、大義名分が必要だ。
ならば――。
令息の視線が、自然と半地下への階段へ向いた。
オリバー。
あの女がいる。
あれを盾にすればいい。
いや、盾ではない。もっと都合の良い形がある。
今夜のうちに既成事実さえ作ってしまえばいいのだ。
そうなれば、辺境伯家だって面倒になる。
手を出しにくくなる。
女だって、他に行き場はなくなる。
そう考えた瞬間、わずかに息が戻った。
「坊ちゃま……?」
使用人が恐る恐る声を掛けてくる。
令息はゆっくりと笑みを作った。
唇の端が、引きつる。
「慌てるな」
「ですが……」
「砦の門を固めろ。余計な者を入れるな。見張りを増やせ。半地下には誰も近づけるな」
命じながらも、鼓動は速いままだった。
喉が渇く。
手のひらに汗が滲む。
それでも笑わなければならない。
ここで取り乱せば終わりだ。
「グルド・バントスとて、法も理も無視して踏み込めはしない」
そう言った時だった。
遠く、地の底から響くみたいな重い音が、砦全体を震わせた。
――ゴンッ。
誰もが黙る。
一拍遅れて、外壁の上から叫び声が降ってきた。
「騎馬隊です!」
「辺境伯家の旗が見えるぞ!」
「先頭……先頭に、辺境伯本人が……!」
二度目の衝撃が来た。
――ゴンッ!!
今度はさっきよりも近い。
門を叩いている音だと、誰にでも分かった。
使用人が悲鳴みたいな声を漏らす。
兵の顔から血の気が失せる。
令息は動けなかった。
来る。
本当に、来た。
たかが女一人のために。
いや、違う。
あの男にとっては、たかがではないのだ。
その理解が腹の底へ落ちた瞬間、令息の背中を冷たい汗が伝った。
半地下。
独房。
今夜。
既成事実。
頭の中で、さっきまで自分を支えていた言葉が、急にひどく安っぽく聞こえる。
もし、間に合わなかったら。
もし、あの男が門を破ってここまで来たら。
自分は、どうなる。
答えは考えるまでもなかった。
「……半地下へ行く」
気づけば、そう呟いていた。
兵がぎょっとする。
「ぼ、坊ちゃま?」
「あの女のところへだ!」
自分でも何を言っているのか、半分分かっていなかった。
守るためではない。
安心させるためでもない。
ただ、手放したくなかった。
ここで奪われるくらいなら、先に自分のものにしてしまいたかった。
その瞬間、門の方角から、今までとは比べものにならない轟音が響いた。
木が軋み、鉄が悲鳴を上げる。
砦の空気そのものが震えた。
令息は顔を上げた。
喉が鳴る。
笑みはもう、どこにもなかった。
辺境伯が来る。
その事実だけが、刃みたいに鋭く胸を裂いていた。




