Act.22 真珠を取り戻すために
Side バルク
最初から、疑う先は一つだった。
修道院と孤児院への寄付を中抜きしていた家。
そのうえで、オリバー嬢を愛人として差し出せなどと抜かした、あの考えなしの家臣筋。
消えたのがオリバー嬢だと分かった時点で、他を疑う方がどうかしている。
もちろん証拠は要る。
辺境伯家が動くなら理も要る。
だが、理屈を揃えている間に間に合わなくなることもある。
今回は、まさにそれだった。
情報が入ったのは、朝のうちだった。
「バルク様」
馬を出す支度をさせながら待っていると、斥候の一人が土埃まみれで駆け込んできた。
「申せ」
「例の家の息子が、夜中に辺境の砦へ入ったとのことです」
その一言に、周囲の空気がぴんと張る。
「一人か?」
「いえ。馬車で」
斥候は息を整えながら続けた。
「窓には厚いカーテンが掛けられており、外から中は見えなかったと。しかも、砦の半地下にある独房を使っているそうです」
そこで、思わず鼻で笑ってしまった。
「幼稚だな」
斥候が顔を上げる。
「隠すなら、もっと緻密にやればいいものを」
夜中に砦入り。
窓を隠した馬車。
半地下の独房。
これで怪しくありませんは通らんだろう。
辺境の人間を舐めすぎだ。
怪しいものほど目立つ土地で、こんな分かりやすい真似をすれば、そりゃ耳にも入る。
だが同時に、それだけ余裕がなかったということでもある。
あの倅は焦っているのだ。
オリバー嬢をどうにかして手に入れたくて、まともな算段もつけぬまま事を起こした。
辺境伯家が本気で動き出す前に、自分のものにしてしまえば勝ちだとでも思ったのだろう。
愚かだ。
ひどく、愚かだ。
「馬を出せ」
低く告げると、周囲の騎士たちが即座に動いた。
振り返れば、すでにグルドが馬へ跨っている。
完全な戦装備だった。
黒革と鋼の胸当て。
肩甲。
腰には剣。
魔獣討伐でも行くのかと思うような物々しさで、しかもその顔が、静かに冷えている。
怒鳴りもしない。
喚きもしない。
だが、あれはよくない。
昔からそうだ。
グルドが本当に怒った時ほど、声は低くなる。
表情は消える。
そして、目だけが獲物を見据えた獣みたいになる。
「グルド」
声をかけると、甥は一度だけこちらを見た。
「情報は?」
「砦だ。夜中に例の倅が馬車で入っている。半地下の独房使用」
それだけ告げれば十分だった。
グルドの手綱を握る指が、ぎしりと鳴るほど強くなる。
「……そうか」
たった三文字だったが、背筋が冷えるには十分だった。
後ろには、バントス辺境伯騎士団が控えていた。
こちらも完全武装。
槍、剣、弓。
馬上戦を前提にした装備で、砦一つ落とすつもりかと思うほどだ。
いや、まあ、そのくらいの勢いで行くつもりなのだろう。
私は思わず笑いそうになった。
笑える場面ではないのだが、これだけ揃えられると、もう笑うしかない。
まったく。
恋愛なんて面倒くさい。
結婚なんてどうでもいい。
令嬢方はすぐ倒れるから無理だ。
そういう空気を纏っていた甥が、今や完全武装で女一人を取り返しに行こうとしている。
見合いを何度組んでも響かなかった。
家を継いだ以上、妻を持てといくら言っても、面倒そうな顔しかしなかった。
だが、オクレール公爵が連れてきたあの美女が来てから、少しずつ変わった。
最初は怪訝そうだった。
噂を知っている分、警戒もしていた。
それが礼儀作法を叩き込まれ、叱られ、褒められ、困らされ、少しずつ目で追うようになった。
そして何より――。
久しぶりに、楽しそうな顔をしたのだ。
礼儀作法の練習で褒められた後。
オリバー嬢に呆れられながらも相手にしてもらっている時。
あの不器用な甥が、ほんの少しだけ口元を緩めるのを、私は何度か見た。
ああ、ようやくか、と思ったものだ。
遅い。
本当に遅い。
だが、その分、目に入ったものは深く刺さったのだろう。
グルドが望んだ真珠は、泥の中に落ちていた。
泥まみれだ。
世間の悪意も、親の愚かさも、自分への罰だと思い込む癖も、全部がまとわりついている。
けれど、泥は落とせる。
洗えばいい。
丁寧に、何度でも、根気よく。
だが、傷は違う。
一度つけば、元には戻らない。
だからこそ、今、取り返さねばならん。
「全力で駆けるぞ!」
グルドがそう叫ぶのと同時に、馬腹を蹴った。
その声に、馬が弾かれたように前へ飛び出す。
私も反射的に手綱を操り、その背を追った。
後ろの騎士たちも一斉に続く。
風が頬を打つ。
地面が蹄の音で震える。
朝の冷気が肺を刺すようだった。
それでも前を行く甥の背は少しもぶれない。
ただ真っ直ぐ、砦のある方角へ突っ込んでいく。
その背を見ながら、私は心の中でひとつため息をついた。
あの考えなしの家臣の倅は、たぶん、ただでは済まない。
済ませるつもりがない顔を、私はよく知っている。
子どもの頃から見てきた。
喧嘩で本気になった時も、魔獣を前にした時も、大切なものを傷つけられた時も、グルドはああいう目をする。
まして今回は――。
ただの客人ではない。
ただの公爵令嬢でもない。
自分がようやく見つけた真珠であり、手放したくないと初めて思った女だ。
そこへ汚れた手を伸ばした。
ならばもう、結果は決まっている。
私は馬をさらに前へ出した。
振り落とされぬように、部下たちも必死で食らいついてくる。
あちこちで鞭の鳴る音がした。
砦はまだ遠い。
だが、今夜が来る前に辿り着かねばならない。
間に合わなければ、グルドはきっと自分を許さないだろう。
そして私も、あの真珠に傷がつくのを黙って見過ごした叔父になる。
それは御免だ。
「待っていろよ、オリバー嬢」
風に紛れるほど小さく呟いて、私は甥の背を追った。
その先にあるのが、砦か、地獄かは知らん。
だが少なくとも、あの倅にとっては、どちらも大差ないだろうと思いながら。




