Act.21 今夜が来る前に
Side オリバー
寒さで目が覚めた。
最初に感じたのは、骨の芯まで染みるような冷たさだった。
次に、腕が痛いと気づく。
「……っ」
身じろぎしようとして、そこでようやく自分の身体が思うように動かないことを知った。
薄い白の夜着のまま、手首は後ろで固く縛り上げられている。
それだけではない。腕ごと胴へ巻きつけるように拘束されていて、ろくに身を起こすことさえままならない。
縛り方に、嫌な意図が透けて見えた。
必要だから縛った、というだけではない。
見せつけるような、押しつけるような、支配を愉しむための手つきがそこにある。
それがたまらなく気持ち悪かった。
冷たい石の床に転がされていたらしい。
身体をひねるたびに骨が軋み、薄い夜着越しに床の冷たさが容赦なく伝わってくる。
周囲に灯りはない。
かろうじて見えるのは、四方を囲む石壁と、正面の鉄の扉だけだった。
唯一、天井近くに小さな窓がひとつある。
そこには鉄格子が嵌められ、外の薄明かりがわずかに差し込んでいた。
牢――。
そう思った瞬間、喉が詰まった。
どうして。
何故、自分がこんな場所に。
昨夜、手紙を読んで。
月を見て。
それから――。
記憶がそこで途切れている。
必死に呼吸を整えようとした、その時だった。
がちゃがちゃ、と鉄が擦れる音が響く。
扉の向こうで鍵が回る音。
「……っ」
全身が強張る。
ゆっくりと扉が開き、細い光が床を切り裂いた。
「お目覚めですか? オリバー嬢」
入ってきたのは、見たこともない男だった。
茶色の髪。
痩せているのに妙に力のありそうな身体つき。
何より、その緑色の目が気味悪かった。
ねっとりとした光を孕んでいる。
人を見る目ではない。
品物を眺めるような、手に入れた獲物を愛でるような目だった。
オリバーは反射的に後ずさる。
冷たい床の上を、座ったまま必死に下がる。
けれどすぐに背中が石壁へぶつかった。
逃げ道がない。
男の靴音が、こつ、こつ、と静かに近づいてくる。
それがかえって恐ろしかった。
急ぎもしない。
もう逃げられないと分かっている歩き方だった。
「来ないで……!」
かすれた声で言っても、男は笑っただけだった。
そして、オリバーの目の前でしゃがみ込む。
「やはり、貴女は美しい」
その声は甘ったるく、ひどく不快だった。
男の手が、オリバーの髪をひと房すくい上げる。
さらりと黒髪が持ち上げられ、冷たい空気に晒された首筋へ指先が触れた。
「ひっ……!」
悲鳴が勝手に漏れた。
気持ち悪い。
ぞわりと全身が粟立つ。
男はその反応を楽しむように目を細めた。
「怯えた顔も愛らしい」
そう囁くと、持ち上げた髪に口づけを落とす。
吐き気がした。
手が肩へ触れ、鎖骨へ触れ、そこからさらに下へ降りていこうとする。
「やめて……っ、触らないで!」
身をよじっても、まともに動けない。
縄が食い込み、痛みだけが増していく。
男はくすりと笑った。
「そんなに怯えなくとも、今すぐどうこうはしませんよ」
その言葉が、少しも安心にならない。
むしろ、今すぐではないのなら、その先に何があるのかを嫌でも考えさせられる。
その時、廊下の向こうから慌ただしい足音が響いた。
「坊ちゃま! バントス辺境伯家より伝令が!」
男は露骨に面倒そうな顔をした。
「……ああ、分かったよ」
立ち上がり際、もう一度オリバーを見下ろす。
その目の中の欲が、隠しもせずにこちらへ向けられていた。
「じゃあ、オリバー嬢」
甘くねっとりとした声が、耳にまとわりつく。
「今夜は楽しみにしていてね?」
全身の血が引いた。
今夜。
その意味が分からないほど、子どもではない。
嫌だ。
絶対に嫌。
名前も知らないような男に触れられるなど、絶対に嫌だ。
がちゃん、と扉が閉まり、鍵がかかる音が響く。
その音に、一瞬だけほっとしてしまった自分がいる。
今はまだ出ていった。
今はまだ、一人だ。
けれどそれは、今だけという意味でもあった。
「あれは……誰……?」
震える声が石壁に吸い込まれる。
なんで私は、こんな所にいるの。
どうして、こんな目に。
その前に――今夜。
今夜、何をされるの。
思考がそこへ至った瞬間、身体の芯から震えが込み上げてきた。
嫌だ。
触れられたくない。
あの男だけは嫌だ。
触れられるなら――。
そこで、脳裏に浮かんだのは、欠け始めた月の下のバルコニーだった。
強い腕。
低い声。
『死ぬのだけはやめてくれ』と震えていた声。
あの温かさ。
グルド様。
胸の奥がぎゅうと痛んだ。
あの人以外に、触れられたくない。
その思いが、自分でも驚くほどはっきりしていて、オリバーは息を呑んだ。
でも、どうすればいいの。
助けて、なんて。
今まで一度も、そんなふうに叫んだことはなかった。
自分さえ我慢すればいいと思ってきた。
黙って耐えるのが一番だと、そうやって生きてきた。
けれど、今は違う。
身を捩る。
必死に脚を引き寄せ、壁を背にして身体を起こす。
足元はふらつき、何度も膝が石床へぶつかった。
それでも、どうにか壁に肩を預けて立ち上がる。
天井近くの小窓は、遠い。
とても届く高さではない。
それでも、何もしないよりはましだった。
オリバーは壁へ身体をぶつけるようにしながら、よろよろと窓の真下まで進む。
喉が震える。
声が出るかも分からない。
けれど、もう迷っている暇はなかった。
「誰か……!」
最初の声は、情けないほど掠れていた。
オリバーは息を吸い直す。
胸が痛い。
怖い。
それでも、今はそれを飲み込んではいけない。
「誰か、助けてください!」
石の部屋に、自分の声が痛いほど響いた。
「お願い、誰か……!」
初めてだった。
自分が助けられる側になることを認めて、声を上げたのは。
涙で滲んだ視界の向こうで、鉄格子の小窓は冷たく夜の色を切り取っている。
それでもオリバーは、もう一度、今度ははっきりと叫んだ。
「助けてください!」




