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悪女と呼ばれた月下の真珠は、野獣辺境伯の妻になりました  作者: まるちーるだ


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Act.20 逆鱗


Side グルド


朝は、メイドの悲鳴に近い声で始まった。


「旦那様!」


扉を叩く音が、まだ寝起きの頭に容赦なく響く。


「旦那様、失礼いたします!」


返事を待つ余裕すらなかったのだろう。

飛び込んできたメイドも、その後ろの侍女も、ただ事ではない顔をしていた。


「何だ」


寝台から起き上がりながら問えば、メイドは息を切らしたまま言った。


「オリバー様が……お部屋に、いらっしゃいません」


その瞬間、頭の中の靄が一気に晴れた。


「何だと」


低く返すと、侍女が震える声で続ける。


「今朝、お支度のために伺いましたら、寝台が空で……バルコニーの窓が開いておりました」


嫌なものが、背骨を冷たく這い上がった。


俺は上着を掴み、ほとんど引っかけるようにして部屋を出る。

廊下ではすでに、騒ぎを聞きつけたらしいバルク叔父上とギルバートが待っていた。


「聞いた」


バルク叔父上が短く言う。


「部屋を見に行くぞ」


四人で客間へ向かう間にも、使用人たちの顔色が変わっていくのが分かった。

皆、オリバー嬢がいないことの異様さを理解しているのだ。


客間の扉は半ば開いていた。

中は、昨夜のままの静けさを残している。


寝台は乱れていない。

夜着のまま出て行った様子もない。

机の上には、封の切られた手紙が一通、きちんと置かれていた。


ギルバートが手袋越しにそれを持ち上げ、目を通す。


「修道院の院長からのものです」


「……置いていったのか?」


「おそらく、昨夜お読みになったのでしょう」


そう言って、ギルバートがそっと紙をこちらへ向ける。


文字の上に、いくつか歪んだ滲みがあった。

水ではない。

インクのにじみ方が違う。


涙の痕だった。


胸の奥がざわつく。


昨夜、あの手紙を読んで泣いたのか。

泣いて、それで――どうした?


「念のため、修道院へ確認を」


ギルバートが静かに言った。


「夜のうちに戻られた可能性もございます」


だが、その言葉に、誰もすぐには頷かなかった。


俺も、バルク叔父上も、侍女も、メイドも。


釈然としない。


オリバー嬢が、何も言わずに勝手に帰るか?


あれほど礼儀を重んじる人間が。

帰るにしても、ひと言も残さず姿を消すか?


違う。


何かがおかしい。


「……バルコニーだ」


気づけばそう言っていた。


客間を横切り、奥の窓へ向かう。

夜の冷気がまだ残る外へ踏み出すと、朝の光が白々と庭を照らしていた。


バルコニーは高い。

ここから飛び降りるなど、女一人でできることではない。

ましてオリバー嬢は、そんな無茶をする人じゃない。


欄干へ近づき、視線を落とす。


花壇。

朝露。

そして、その中に混ざるわずかな乱れ。


さらに視線を戻しかけた時、ふと、手すりの内側に不自然な傷を見つけた。


「……これは」


指先でそっとなぞる。


鉄の塗装が削れ、浅くえぐれている。

偶然つく傷ではない。

何か硬い金具が引っかかったような痕だった。


城壁や崖を登る時に使う縄付きの鉤爪。


それがここに掛けられていたとしたら。


外から上って来ることができる。

そして――人を抱えて、下ろすことも。


その想像が、あまりにも自然に頭へ浮かんでしまった。


背中の温度が、一気に落ちる。


「……庭に、不審な足跡がないか確認しろ」


自分でも驚くほど静かな声だった。


だが、その声に屋敷の空気が一変した。


侍従がびくりと肩を跳ねさせる。

メイドたちの顔から血の気が引く。

まるで魔獣討伐の前線で命令を下す時の声だと、誰もが分かったのだろう。


「は、はい!」


侍従たちが慌てて走り出す。


バルク叔父上が横に立った。

ギルバートもまた、何も言わずに傷を見ている。


しばらくして、庭へ駆け下りていた侍従が息を切らして戻ってきた。


「旦那様!」


「どこだ」


「こちらへ!」


案内されたのは、バルコニーの真下にあたる花壇だった。


そこを見た瞬間、胸の奥の最後の希望が消えた。


花壇は、無残に踏みつぶされていた。


今朝まで綺麗に整っていたはずの土が深く抉られ、植えたばかりの苗が何本も折れている。

しかも一箇所ではない。

降り立った足場を確保するように、複数の位置が荒れていた。


バルク叔父上が低く言う。


「……オリバー嬢じゃないだろうな」


その言葉に、すぐさまメイドが声を上げた。


「ええ、オリバー様は花を大切になさっておりました! 庭師が植えている時も、よく立ち止まって見ておられましたし、踏むわけがありませんわ!」


「……その前に」


俺は花壇の脇へしゃがみ込み、土を睨んだ。


深い。

そして広い。


「足跡が明らかに男だろう」


その一言で、全員が息を呑んだ。


靴底の大きさも、沈み込みの深さも違う。

軽い女の足ではない。

しかも一つではない。二人分――いや、往復を考えればそれ以上か。


足跡は花壇の向こう、木立の陰へと続いている。

そこから先は、あえて踏み荒らされぬよう選んだのか、薄くなっていた。


だがもう十分だった。


オリバー嬢は、自分の意志で出て行ったのではない。


攫われたのだ。


「ギルバート」


振り返らずに呼ぶ。


「『例の家』をすぐに調べろ」


一瞬で、ギルバートの顔つきが変わった。


「承知しました」


「馬を出せ。人を集めろ。屋敷の出入り、街道、別荘、倉庫、全部洗え」


「はい」


ギルバートはもう走り出していた。

老執事とは思えぬ速さだった。


バルク叔父上が俺の横へ来る。


「グルド」


「分かってる」


自分でも驚くほど、頭は冷えていた。


怒っている。

間違いなく怒っている。

だがその怒りは燃え上がる炎じゃない。

氷みたいに研ぎ澄まされて、どこまでも静かだった。


オリバー嬢は昨夜、あの手紙を読んだ。

泣いた。

迷っていた。

それでもきっと、自分で出て行くなら、ひと言残したはずだ。


それを奪った。


この屋敷の中から。

俺の目の届く場所から。

俺の手が届くはずだった場所から。


「……触れたのか」


自分でも、どんな顔をしているのか分からなかった。


だが周囲の者たちは、誰も口を挟まない。

いや、挟めないのだろう。


俺はゆっくり立ち上がった。


踏み荒らされた花壇の土が、靴の先にひどく不快だった。


「俺の『真珠』に触れたのを、ただで許すと思うな」


その声は低く、冷たく、少しも揺れなかった。


誰もが分かったはずだ。


ああ、これは駄目だと。


歴戦の騎士。

魔獣の群れを前にしても一歩も引かなかった男。

バントス辺境伯の、完全な逆鱗だと。


そしてその矛先が、今、はっきりと定まったのだ。


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