Act.19 帰りたい場所
Side オリバー
気づけば、胸の内は少しずつ追い詰められていた。
嫌ではない。
むしろ、温かいのだ。
グルド様に向けられる眼差しも、あの大きな手も、まっすぐすぎる言葉も。
怖いわけではない。
けれど、どうしていいのか分からない。
受け止めてよいものなのか。
受け止めてしまってよい自分なのか。
その答えが、どうしても見つからなかった。
そんな折、オリバーのもとに一通の手紙が届いた。
封蝋を見た瞬間、息が止まりそうになる。
修道院の院長からだった。
昼間は開けられなかった。
侍女も、メイドも、誰かしらがそばにいる。
一人で読みたかった。
一人で、覚悟を決めて読まなければならない気がした。
だから夜を待った。
与えられた部屋の机に、一本だけ灯りをともす。
その淡い火の中で、オリバーはようやく封を切った。
院長の字は、昔と変わらず真っ直ぐで、無駄がなかった。
厳しい人だ。
けれど、その筆跡にはいつも不器用な温かさが滲む。
資金のことを黙っていて申し訳ありませんでした。
貴女がオクレール公爵に連れられて、バントス辺境伯家へ行ったと聞いた時、私は血の気が引きました。
貴女のことですから、自分さえ我慢すればよいと思っていることでしょう。
けれど、それは違います。
オリバーがいないことで、孤児院の子どもたちは夜に泣きます。
修道院のシスターも、近隣の主婦たちも、貴女にレースを教えてもらえないのを残念がっています。
何より、私も寂しいのです。
バントス辺境伯家で、良い暮らしができていると信じております。
けれど、修道院は貴女の家でもあります。
いつでも帰っていらっしゃい。
最後の一文を読み終えたところで、視界が滲んだ。
慌てて瞬きをする。
けれど、こぼれそうになった熱は簡単には引かなかった。
帰っていらっしゃい。
たったそれだけの言葉が、どうしてこんなにも胸に刺さるのだろう。
自分には、もう帰る資格などないのだと思っていた。
修道院を困窮させた一端が自分にあると知ってしまった今、院長にも、シスターたちにも、子どもたちにも合わせる顔がないと思っていた。
なのに、院長は書いてくれた。
帰ってきていいと。
あの場所は、まだ自分の家でもあるのだと。
「帰っても、いいのでしょうか……」
思わず、声がこぼれた。
そこでようやく気づく。
自分は、帰りたかったのだ。
修道院に。
あの質素で寒い部屋に。
子どもたちの泣き声に。
シスターたちの忙しない足音に。
朝の祈りの冷たさに。
あの場所に。
帰りたい。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけほどけた。
迷子だった足元に、わずかに地面が戻ってきた気がした。
けれど同時に、別の痛みも浮かび上がる。
帰りたい。
でも――。
グルド様と、居たい。
その気持ちを認めた途端、心がまた揺れた。
どうして。
何故。
そんなことを思ってしまうの。
修道院へ帰れるなら、それでいいはずなのに。
ここは仮の居場所だったはずなのに。
それなのに、あの人の顔が浮かぶ。
真っ直ぐな目も、低い声も、あまりにも不器用な優しさも。
オリバーは手紙を胸元へ押し当て、ゆっくりと立ち上がった。
このまま部屋の中にいては、息が詰まりそうだった。
そっと窓を開け、バルコニーへ出る。
冷たい夜風が頬を撫でた。
火照った頭には、それがちょうどよかった。
見上げれば、月はもう少し欠け始めている。
それでも相変わらず、夜空を照らすには十分すぎるほど明るい。
帰りたい。
けれど、帰りたくない。
そんな馬鹿みたいな矛盾が、自分の中に同時にある。
バントス辺境伯家にいてよい理由は、まだ見つからない。
けれど、もしも。
もしも、万が一。
自分がグルド様と結ばれるようなことがあったなら。
そこまで考えた瞬間、背筋を冷たいものが走った。
――悪女。
――毒婦。
――傲慢な女。
王都で向けられた悪意を、身体は忘れていない。
凍りつくような視線。
嘲り。
見下し。
吐き捨てるような囁き。
エレーナとターシャは、まっすぐ前を向いていた。
あの二人は強かった。
どんな視線を向けられても、凛として立っていられた。
けれど、自分は違う。
忘れられない。
王太子殿下と第二王子殿下から向けられた厳しい眼差し。
国王陛下と王妃様の、凍てつくように冷たい視線。
何一つ声を荒げられなかったのに、あれほど怖かった。
自分がそこに存在すること自体が許されていないのだと、思い知らされるような視線だった。
もし、自分がグルド様と結婚するなら。
その時はきっと、王家の前に立たなければならない。
自分だけなら、いい。
けれど。
同じ視線を、同じ悪意を、グルド様に向けられるなど。
そんなことに耐えられる気がしなかった。
あの人は辺境伯だ。
強い。
まっすぐだ。
きっと、そんなものに屈しはしないだろう。
でも、自分が原因でその矢面に立たせるなど、絶対に嫌だった。
欄干に指をかける。
冷えた鉄が、少しだけ頭を冴えさせた。
月は静かだ。
夜風も冷たい。
そうしているうちに、少しずつ心拍が落ち着いてくる。
その時だった。
どさり、と鈍い音が響いた。
「……夜に淑女の部屋へ――っ!?」
思わず叱責しようとして振り返る。
だが、その瞬間にはもう遅かった。
口元が、強い手で塞がれる。
「……っ」
息が詰まる。
鼻先に、僅かに鼻につく匂いが届いた。
酒と、甘い香油と、何かが混ざったような、不快な匂い。
その匂いを、オリバーは知っていた。
視界がぐらりと歪む。
月明かりの下、目の前にあったのは、見知らぬ男の、恍惚とした笑みだった。




