Act.18 逃げる令嬢、追う辺境伯
Side ギルバート
グルド坊ちゃまは、昔から分かりやすいお方だった。
叱られればすぐ顔に出る。
褒められれば耳まで赤くなる。
剣の稽古で負ければ、翌朝には誰よりも早く庭へ出ている。
辺境伯になられてからは、さすがに表へ出すものを選ぶようにはなった。
それでも、根の部分はそう変わっておられない。
腹が立てば声が低くなるし、心配すれば顔が険しくなるし、嬉しい時にはほんの少しだけ口元が緩む。
私はギルバート。
バントス辺境伯家で三代に仕えてきた執事でございます。
つまり、何を申し上げたいかと言えば――。
今朝の坊ちゃまは、非常に分かりやすかった。
「ギルバート」
朝食の席に着くなり、低い声で私を呼ぶ。
「はい、旦那様」
「オリバー嬢は?」
もうそれである。
私は銀のポットを傾けながら、何でもないことのように答えた。
「少し遅れてお見えになるそうです」
「体調でも悪いのか」
「いいえ。侍女と髪を整えておられるとか」
そう申し上げると、旦那様はあからさまに安堵した。
安堵してから、自分が安堵したことに気づいたらしく、むすっとした顔でパンをちぎる。
大変分かりやすい。
ややあって、食堂の扉が開いた。
入って来られたオリバー様は、いつも通り完璧にお綺麗だった。
淡い藤色の朝のドレスに、艶やかな黒髪。
寝不足の跡も、昨夜の動揺も、少なくとも表面上はどこにも見えない。
ただ一つだけ、明らかにいつもと違ったのは――。
「おはようございます、バルク様、ギルバート」
にこやかに挨拶をして、旦那様を綺麗に飛ばしたことである。
私は危うく紅茶を注ぐ手を止めるところだった。
バルク様など、露骨に片眉を上げておられる。
旦那様はというと、
「……おはよう、オリバー嬢」
一拍遅れて、何とか声をかけた。
オリバー様はそちらを向く。
その瞬間だけ、ほんの僅かに頬が熱を帯びたように見えた。
「おはようございます、グルド様――」
そこまで口にして、はっと息を呑まれる。
おや。
そのままオリバー様は、何事もなかったかのように綺麗に言い直した。
「……失礼いたしました。おはようございます、バントス辺境伯様」
礼も声音も完璧である。
完璧であるがゆえに、先ほどの一瞬が際立つ。
私は視線をポットへ落とした。
落としたまま、口元が動かぬように気をつける。
ここで笑っては執事失格である。
横ではバルク様が、カップを口元へ運ぶふりをして肩を震わせておられた。
どうやらあちらも、堪えるのに苦労しているらしい。
旦那様は旦那様で、固まっていた。
やはり。
昨夜、何かあったらしい。
しかも旦那様の方から、相当に踏み込んだのだろう。
もっとも、当のオリバー様は、それを悟られまいとするあまり、その後の所作を普段以上に完璧へ寄せておられる。
逃げておられる。
それはもう、実に鮮やかに。
だが、ひとつだけ確かなことがあった。
完全に拒んでいるなら、そもそも最初の一言は零れない。
「ギルバート」
隣で、低い声がした。
「はい、旦那様」
「今の」
「はい」
「聞いたか」
私は一拍だけ間を置いた。
「ええ、しかと」
すると旦那様は、黙った。
黙ったまま、耳だけがうっすら赤い。
ああ、本当に。
うちの坊ちゃまは昔から、分かりやすいお方である。
「ギルバート」
朝食の終わりに、旦那様が再び低く呼ぶ。
「はい」
「俺、何かしたか?」
思わず、バルク様が咳払いをされた。
私は表情を崩さぬまま答える。
「昨夜の件に、心当たりはございませんか」
旦那様が黙る。
ええ、ございますでしょうとも。
だが旦那様は、その答えにすぐには辿り着かなかったらしい。
難しい顔のまま、しばらく考え込んでから、ようやく絞り出す。
「……求婚、した」
「ええ」
「抱き締めた」
「ええ」
「バルコニーで」
「ええ」
「夜中に」
「ええ」
「……それでか?」
私は一瞬だけ目を閉じた。
「それ以外に、何がございましょう」
隣で、バルク様がとうとう吹き出した。
「若いなあ!」
「笑い事ではございません」
「いや、面白いだろう。昨夜あれだけやっておいて、朝には普通に戻れると思ってるんだから」
旦那様は本気で不服そうな顔をした。
「だが、逃げるほどのことか?」
「逃げますとも」
きっぱり申し上げる。
「逃げておられるのではなく、整理する時間を必要としておられるのです」
「同じじゃないか」
「似て非なるものでございます」
私がそう申し上げた時には、もう旦那様は椅子から立ち上がっていた。
嫌な予感しかしない。
「どちらへ」
「話してくる」
「旦那様」
「今ならまだ庭だろう」
「旦那様」
呼び止めても遅かった。
長い脚でさっさと食堂を出て行かれる。
私は静かに額を押さえた。
「……追いますか」
バルク様が面白そうに問う。
「いえ」
私は深く息を吐いた。
「まずは、どのように逃げ、どのように追うかを拝見いたしましょう」
結果から申し上げれば、予想以上に見事であった。
庭へ出た旦那様は、すぐにオリバー様を見つけられた。
だが、声をかけようとした瞬間、オリバー様は「あら、メアリー」と絶妙な声量で呼び止め、まるで最初から用事があったかのように歩き去ってしまわれた。
廊下でもそうだった。
旦那様が角を曲がる。
その先にはオリバー様。
今度こそ捕まるかと思いきや、
「まあ、刺繍糸が足りませんの?」
と、通りがかった侍女に声をかけ、そのまま布庫へ。
書庫でもそうである。
旦那様が一歩踏み込む。
オリバー様が振り返る。
目が合う。
その瞬間だけ、ほんの少し頬が赤くなる。
おや、と思った次の瞬間には、
「ちょうど調べたい図案がございましたの」
と言って、棚の向こうへ消えてしまわれた。
「見事だな」
バルク様が廊下の柱にもたれながら、感心したように唸る。
「オリバー嬢、完全に逃げてるぞ」
「はい」
「グルドも追ってるな」
「はい」
「お前、止めなくていいのか」
私は庭の回廊の先を見やった。
オリバー様が早足で歩き、その少し後ろを旦那様が追っている。
旦那様は決して走らない。だが歩幅が広いので、結果としてかなり迫って見える。
「止めるには、まだ早うございます」
「ほう?」
「今の旦那様には、ご自分がどれほど分かりやすいかを少し知っていただく必要がございます」
バルク様は肩を揺らして笑った。
「お前も大概性格が悪いな、ギルバート」
「執事は時に冷酷でなくては務まりません」
そう返しているうちに、また一つ小さな攻防が起きていた。
中庭へ出たオリバー様が、花壇の縁で立ち止まる。
追いついた旦那様が何かを言う。
オリバー様はきっちり一礼し、半歩下がる。
旦那様がさらに一歩詰める。
オリバー様、今度は横へ逸れる。
その一連の動きがあまりにも鮮やかで、私は少し感心した。
「まるで舞だな」
バルク様がぼそりと呟く。
「逃げる令嬢と、追う辺境伯。見世物としては上等かと」
「笑ってる場合ではないぞ」
「ですが、昨日よりはよほどよろしい」
私は静かに言った。
「少なくともオリバー様は、旦那様を拒絶してはおられません」
バルク様が目を細める。
「避けてるぞ?」
「避けてはおられます。ですが、拒んではおられません。言葉は返す。礼も崩さない。部屋へ閉じこもりもなさらない。完全に心を閉ざした方の振る舞いではございません」
むしろ問題は、旦那様である。
「旦那様は、もう少し待つことを覚えていただきたい」
「まあ、あれは無理だろうな」
「ええ。ですから学んでいただくのです」
そう申し上げた時、ちょうど旦那様がまたこちらへ戻って来られた。
表情は険しい。
だが怒っているのではない。困っておられるのだ。
「ギルバート」
「はい」
「オリバー嬢が逃げる」
「それは重畳にございますね」
「よくない」
きっぱり返ってくる。
「話したいんだ」
「でしたら、追ってはなりません」
「追わなければ話せないだろう」
「追うから逃げるのです」
旦那様は本気で難しい顔をされた。
その横で、バルク様がとうとう腹を抱えて笑い出す。
「駄目だ、面白すぎる!」
「笑うな、叔父上!」
「だってお前、さっきから猟犬みたいな顔してるぞ!」
「誰のせいだ!」
「お前のせいだろう!」
大変賑やかである。
私は一つ咳払いをして、二人を現実へ戻した。
「旦那様」
「何だ」
「今、オリバー様に必要なのは、追手ではございません」
旦那様が眉を寄せる。
「では何だ」
「逃げ切れぬと知るだけの、静かな時間です」
その言葉に、旦那様はしばらく黙った。
すぐには意味が通らなかったのだろう。
だが、やがてほんの少しだけ視線が落ちる。
「……俺が追うから、落ち着かないのか」
「はい」
「では、放っておけと」
「いいえ」
私は首を振った。
「放っておいてはなりません。ですが、追い詰めてもなりません」
「難しすぎるだろう」
「恋とはそういうものかと」
そこで旦那様は、ものすごく嫌そうな顔をされた。
ええ、存じております。
礼儀作法の次は恋の機微。旦那様には難題続きでございましょう。
ですが、逃げる令嬢を追うのであれば、それ相応の学びが必要なのです。
私は回廊の先へ視線を向けた。
ちょうどオリバー様が、侍女を一人伴って、遠回りをするように中庭の反対側へ歩いて行かれるところだった。
だが、その歩みはどこか落ち着かない。
逃げきれて安心した者の足取りではない。
おそらく、あの方も困っておられるのだ。
追われて困る。
だが、追われなくなるのもきっと嫌だ。
そういうお顔をしておられる。
「ギルバート」
「はい」
「お前、何か企んでるだろう」
旦那様がじろりと睨む。
私は丁重に一礼した。
「執事とは、企むのが仕事でございます」
バルク様がまた笑い声を上げる。
その笑いを背に、私は静かに次の手を考えた。
メイドたちの配置。
侍女たちの導線。
刺繍の時間と、お茶の時間。
偶然を装って二人が同じ場所に留まる機会を、どう作るか。
老執事は知っている。
逃げる者に必要なのは、追手ではない。
かといって、完全な自由でもない。
逃げ切れぬと知るだけの静かな時間と、
逃げてもなお、迎えに来る足音なのだ。
そうしてバントス辺境伯家では今日もまた、逃げる令嬢と追う辺境伯を、使用人たちがそっと見守っていた。
もちろん、その背後で外堀をさらに埋めながら。
それが、この家の者たちの流儀であった。




