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悪女と呼ばれた月下の真珠は、野獣辺境伯の妻になりました  作者: まるちーるだ


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Act.17 迷子の月

Side オリバー


気づけば、求婚されてから三日が過ぎていた。


たった三日。

けれど、オリバーには三十日ほどにも感じられた。


あの日、執務室で抱き締められ、あの低い声で「君を妻に望みたい」と告げられたあと、オリバーはどうにかこうにか笑って、どうにかこうにか断った。


それはもう、驚くほど綺麗に。


自分にはその資格がないこと。

オクレール公爵家に申し訳が立たないこと。

辺境伯夫人にはもっと相応しい令嬢がいること。

修道院へ戻るべき身であること。


それらしい理屈を、令嬢らしい言葉で並べ立てて、最後にはきちんとカーテシーまでしてみせた。


けれど、グルドは諦めなかった。


あからさまに口説くような真似はしない。

無理に二人きりになろうともしない。

ただ、目が合えば逸らさない。

困っていれば手を貸す。

疲れていれば休ませようとする。


それが余計に困るのだ。


諦めてくれない。

怒ってくれない。

『分かった』と突き放してもくれない。


おかげでオリバーの周囲には、以前にも増して人がつくようになった。


侍女が一人。

メイドが一人。

お茶を運ぶにも、刺繍道具を整えるにも、何かしら誰かがそばにいる。


まるで丁重に扱われているようでいて、どこか見守られているようでもあった。


――いえ、監視かもしれませんわね。


そう思ってしまう自分に、オリバーは心の中で苦笑した。


けれど、逃げたいわけではない。

では残りたいのかと問われれば、それも分からない。


修道院へ帰れば、院長に合わせる顔がない。

孤児院の子どもたちにも、シスターたちにも、何を言えばいいのか分からない。

あの窮状の一端が自分にあったと知ってしまった今、以前のような顔で「戻りました」と言える気がしなかった。


だからといって、バントス辺境伯家にいてよい理由も、もう分からない。


礼儀作法の指導は終わりに近い。

レースも刺繍も、教えられることはそう多くない。

ここにいる理由を問われたら、今の自分には答えられない。


どこへ行けばいいのか、分からない。


その夜。


オリバーは、寝支度を済ませたあと、そっと寝室からバルコニーへ出た。


ついていた侍女は、隣室で夜着の片づけをしている。

ほんの少しだけ、一人になりたかった。


夜気はもう十分に冷たい。

辺境の秋の終わりは早い。

昼間の陽射しがどれほど穏やかでも、夜の風は容赦なく冬の気配を含んでいる。


その冷たさが、今はむしろ心地よかった。


空を見上げれば、満月だった。


丸く、白く、冴え冴えとしている。

夜の底を照らすその光は綺麗すぎて、時折ひどく残酷だ。


王都にいた頃は、月など気にしたこともなかった。

修道院では、夜更けに外へ出る余裕などなかった。

こうして一人で眺める月は、たぶん久しぶりだ。


迷子だわ。


ふいに、そんな言葉が胸に浮かんだ。


まさに、それだった。


帰るべき場所にも戻れない。

残るべき場所にも立てない。

差し出された手を取る資格もなく、だからといって振り払うだけの覚悟もない。


どこへ行けばいいのか分からない。

どこにも、まっすぐ歩いていけない。


そんな自分を、まるで月だけが知っているような気がして、オリバーはそっと欄干に指をかけた。


その時だった。


どさり、と鈍い音が響いた。


「……っ!?」


驚いて振り返る。


バルコニーの隅、月影の落ちるところに、大きな影がひとつ着地していた。


「な――」


声を上げるより早く、その影がこちらへ歩み寄る。


月明かりの中に現れた金の髪。

見慣れた長身。

夜着の上に適当に上着だけ引っ掛けてきたらしい、あまりに無骨な姿。


「バントス辺境伯様!?」


思わず一歩下がる。


だが、その一歩分よりも早く、彼の腕が伸びた。


次の瞬間には、抱き締められていた。


「……!」


強い腕だった。

執務室で抱き締められた時よりも、ずっと切迫している。

逃がすまいとしているのではなく、何かを確かめるみたいな、必死な力だった。


耳元に、荒い息が落ちる。


「頼む」


その声は、今まで聞いたどんな時よりも切実だった。


「俺が嫌なら、それでいい」


オリバーは目を見開く。

何を言われているのか分からず、息を止める。


「修道院にも返す。諦める」


低い声が、震えていた。


「だから」


腕にこもる力が、さらに強くなる。


「死ぬのだけはやめてくれ」


「……え?」


本当に、それしか言えなかった。


あまりにも予想外だった。


求婚の言葉なら分かる。

諦めないと言われるなら、まだ分かる。

けれど、どうしてここでそんな言葉が出てくるのだろう。


「死ぬくらいなら、諦める」


バントス辺境伯は、まるで自分に言い聞かせるように続けた。


「生きてくれるだけでいい。だから頼む」


オリバーは、絶句した。


月の下で、抱き締められたまま、ただ呆然とするしかない。


自分は、そんな顔をしていたのだろうか。

そんなふうに見えていたのだろうか。


消えてしまいそうに。

死んでしまいそうに。


「……私は」


ようやく絞り出した声は、ひどくかすれていた。


「そんなふうに、見えておりましたの」


バントス辺境伯は少しだけ身体を離した。

だが腕はまだ、オリバーの肩を囲ったままだ。


月明かりの下のアイスブルーの目は、今まで見たことがないくらい真剣だった。


「見えた」


短い返事だった。

けれど、何の迷いもない。


「執務室で、お前、綺麗に笑っただろ」


胸の奥がきゅっと縮む。


「何もなかったみたいに礼をして、部屋を出ようとした」


「……」


「だから余計に、怖かった」


その一言に、オリバーは何も返せなかった。


綺麗に笑う。

綺麗に礼をする。

綺麗に壊れる。


それが自分の癖なのだと、目の前の男は気づいてしまっている。


「私は」


唇がかすかに震えた。


「死ぬつもりなど、ありませんでした」


「……そうか」


バントス辺境伯はそう言って、目を閉じた。

安堵したように。

心の底から力が抜けたように。


その顔を見てしまって、オリバーは胸の奥が妙に苦しくなる。


この人は、本当に怯えていたのだ。

自分が消えるかもしれないと、本気で思って、ここへ来たのだ。


それが、どうしてだか、ひどく堪えた。


迷惑な存在だと、ずっと思ってきた。

どこにいても誰かの重荷になって、誰かを困らせるだけの存在だと。


なのにこの人は、そんな自分に向かって「生きてくれるだけでいい」と言う。


それは、あまりにも予想外の言葉だった。


そして。


抱き締められるこの温かさが、嫌ではないのだと、気づいてしまった。


胸板は硬い。

腕は強い。

男の身体だと嫌でも分かるのに、不快ではない。

むしろ、その熱に縋りたいと、一瞬でも思ってしまった自分がいる。


それが何より恐ろしかった。


オリバーは、ぎゅっと指先を握りしめた。


「……バントス辺境伯様」


ようやく呼ぶと、彼は静かに目を開けた。


「その呼び方はやめてくれ」


低い声だった。

けれど先ほどまでの切迫とは違う、どこか願うような響きがあった。


「今だけでいい。グルドと呼んでくれ」


その言葉に、オリバーは息を止める。


名前を呼ぶ。

それだけのことが、どうしてこんなにも難しいのだろう。


婚約者でもない男を。

しかも辺境伯を。

そんなふうに呼ぶのは、許されることではない。


けれど、今の彼の声はあまりにも真っ直ぐだった。


断る言葉を探したはずなのに、唇から零れたのは別のものだった。


「……グルド、様」


言った瞬間、自分で自分の顔が熱くなるのが分かった。


しまった、と思った時にはもう遅い。


彼の目が、はっきりと揺れる。


「――ああ」


たったそれだけの返事なのに、妙に甘く響いて、オリバーは逃げるように視線を伏せた。


「私は、迷っております」


言葉を探しながら、ゆっくりと告げる。


「修道院にも帰れない気がして、ここにいてよいのかも分からなくて、だから月を見ていただけです」


「……ああ」


「死ぬつもりは、ありません」


「それならいい」


即答だった。


あまりにも迷いのない返事に、オリバーは目を瞬く。


「それなら?」


「お前が生きてるなら、あとは何とかする」


その言葉に、思わず小さく笑いそうになった。


何をどう何とかするつもりなのだろう、この人は。


困る。

本当に困る。


けれど、困るだけでは済まなくなっている。


「……そのようなことを」


「言う」


低い声が、今度は少しだけ柔らかくなる。


「何度でも言う」


オリバーは月を見上げた。


白い満月は、相変わらず綺麗だった。

でも先ほどより少しだけ、冷たく見えなかった。


迷子のままでも。

今だけは、ここにいてもよいのかもしれない。


そんなことを、ほんの少しだけ思ってしまった自分を、まだオリバーは認められなかったけれど。


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