Act.16 綺麗に壊れるひと
Side オリバー
気づけば、この屋敷での暮らしも一ヶ月に届こうとしていた。
最初はほんの数日、礼儀作法を教える間だけの滞在だと思っていた。
けれど、レースを教え、刺繍を教え、気づけばメイドたちと笑い合う時間までできてしまった。
それでも、ここはあくまで仮の居場所だ。
そう、自分に言い聞かせ続けてきた。
そして、もう間もなく冬が来る。
辺境の冬は、王都のそれとはまるで違う。
寒い、では済まない。
痛い。
厳しい。
油断すれば人が死ぬ。
暖炉と毛布があれば何とかなるようなものではなく、薪も、備蓄も、衣も、屋根も、全部が揃っていてようやく耐えられる季節だ。
だからこそ、戻らなければならない。
修道院へ。
孤児院へ。
自分がいなければならない場所へ。
そう思い定めて、オリバーは執務室の前で一度だけ息を整えた。
扉を叩けば、すぐに「どうぞ」と声が返る。
中には、グルド、バルク、執事の三人がいた。
何やら帳簿を広げていたらしいが、オリバーが入るとそれぞれ顔を上げた。
「どうかなさいましたか、オリバー様」
執事が立ち上がりかける。
オリバーは首を振った。
「いえ。お話がありまして」
そう言うと、三人の視線が自然と集まる。
少しだけ、喉が渇いた。
けれど今さら引き返すわけにはいかない。
「もうそろそろ、礼儀作法は問題ないかと存じます」
まずはそこから切り出す。
グルドは小さく眉を動かした。
「あと、できましたら……そろそろ修道院へ戻りたいのですが」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気がはっきりと変わった。
グルドの顔が曇る。
バルクも執事も、一瞬だけ言葉を失ったように黙り込んだ。
その反応に、オリバーは目を細める。
「……何か、あったのですか?」
「いや……」
グルドが珍しく言葉を濁した。
だが、その一拍のためらいを見逃すほど、オリバーは鈍くない。
「事情をお話しいただけないのでしたら」
静かに言葉を置く。
「歩いてでも戻ります」
今度こそ、三人が揃って表情を変えた。
「おい」
「オリバー嬢」
「それは」
重なる声を聞きながら、オリバーはまっすぐ立ったまま言葉を継ぐ。
「今の私は客人です。けれど、修道院にも孤児院にも冬は参ります。何かが起きているのに、私だけ何も知らぬままでいるわけにはまいりません」
執事が小さく息を吐いた。
バルクも腕を組み直し、渋い顔をする。
そして三人は、観念したように顔を見合わせた。
「……分かった」
最初に折れたのはグルドだった。
「話す」
その一言に、執事がそっと帳簿を閉じた。
「修道院と孤児院について、調査を進めておりました」
執事の声は静かだった。
「その結果、本来バントス辺境伯家から出されているはずの寄付金が、どちらにも届いていないことが判明いたしました」
一瞬、意味が分からなかった。
「届いて、いない……?」
「はい」
執事が淡々と続ける。
「修道院にも孤児院にも、一銭も入っておりませんでした。帳簿上は支出済みになっておりますが、途中で中抜きされていたようです」
オリバーは何も言えなかった。
それはつまり、自分たちがずっと困窮していたのは、ただ辺境だからでも、寄付が薄いからでもなく、途中で奪われていたからだということだ。
「現在は改修工事と冬支度を進めております」
今度はバルクが言った。
「屋根、薪、毛布、衣類、備蓄。修道院も孤児院も、冬を越せるようにこっちで手を入れている」
「……何故、急に?」
気づけばそう問うていた。
本当に、それが分からなかった。
今まで何も届かなかったのに、なぜ今さら。
オリバーの問いに、バルクと執事がそろって微妙な顔をした。
苦笑いで誤魔化そうとする空気が見える。
だが、その前にグルドが口を開いた。
「オリバー嬢に悋気を起こした馬鹿がいた」
その声は低く、ひどく真っ直ぐだった。
バルクと執事が、同時に「ああ」と言いたげに額を押さえる。
グルドは気づかないのか、気づいても止めないのか、そのまま続けた。
「資金を中抜きして、そのうえ『オリバー嬢を愛人に寄越すなら援助してやる』と抜かしていたそうだ」
部屋が、しんと静まり返った。
何かを言われたはずだった。
言葉は聞こえた。
意味も分かる。
分かるのに、頭がうまく動かない。
愛人。
その言葉だけが、鈍く胸の奥に落ちていく。
オリバーは、はっきりとショックを受けた顔をした。
それがほんの一瞬のことだったからこそ、バルクも執事も余計に息を呑んだ。
だが、次の瞬間には、いつものように令嬢らしく口元を整えていた。
笑う。
綺麗に。
何もなかったかのように。
けれど内心では、泣き叫びたい気持ちを何とか押し込めていた。
つまり。
あの修道院が。
併設された孤児院が。
冬が来るたび、どうにかこうにか食いつないできたあの場所が。
困窮していた理由の一端は、自分にあったのだ。
自分がいたから。
自分を欲した男がいたから。
だから金が止まり、だから院長は拒み続け、だからあの細い身体で踏ん張るしかなかった。
愛人、だったなら。
いっそ差し出してしまえばよかったのではないか。
そうすれば修道院は助かったのではないか。
孤児院の子どもたちは、あんなに寒い思いをしなかったのではないか。
――いいえ。
そうなれば母が暴れる。
修道院は別の意味で壊れる。
院長は、それも分かっていたのだろう。
板挟みだったのか。
何処に居ても、迷惑な存在ね。
心の底でそう思いながら、オリバーは笑った。
「……真実を、教えてくださって、感謝しますわ」
そう言って、綺麗にカーテシーをする。
背筋を伸ばし、視線を落とし、裾をさばく。
幼い頃から何千回と繰り返した完璧な礼だった。
元の姿勢へ戻る。
そのまま、扉へ向かおうとした。
その瞬間だった。
視界がぶれる。
次の瞬間には、硬いものに包まれていた。
「……っ」
咄嗟に何が起きたのか理解できない。
だが、鼻先にかかるのは男物の衣の匂い。
頬に触れるのは、鍛え上げられた胸の固さ。
背に回された腕の重さ。
抱き締められている。
そう気づいた時には、身体が完全に固まっていた。
「お前」
耳元で、低い声がした。
「いい加減、泣くか、喚くか、したらどうだ?」
「……はい?」
言われた意味が分からなかった。
泣く。
喚く。
誰が。
何故。
あまりの唐突さに、思考が止まる。
そしてそれと同時に、何故かバルクと執事が揃って大きくため息をついた。
「やはりこうなったか」
「旦那様ですからな」
何とも言えない声でそう言うと、二人はそのまま執務室を出て行った。
扉が閉まる。
残されたのは、グルドと、抱き締められたままのオリバーだけだった。
意味が分からない。
本当に分からない。
「感情を抑え込み過ぎると、いつか壊れるぞ?」
また、低い声が降る。
オリバーはようやく、腕の中でもがくように身じろぎした。
「……何のことでしょう」
声が少しだけ上ずる。
「あと、淑女を」
「もう、それはいい」
遮るように言われる。
「オリバー」
その一言に、肩がびくりと跳ねた。
呼び捨て。
頭の中が真っ白になる。
「名前は、」
かろうじて絞り出した言葉は、自分でも驚くほど弱かった。
グルドは少しだけ息を吐く。
「婚約者以外は許されない、だろう?」
「分かっているなら、離して、くださ――」
ぎゅう、と抱き締める力が強くなった。
骨が鳴るほどではない。
だが、絶対に逃がさないという意思だけは嫌になるほど伝わる。
「婚姻するなら、お前がいい」
その言葉に、オリバーの血が一瞬で冷えた。
足先から、いや、心臓から凍っていくような感覚だった。
この男は、何と言った?
何を言っているの?
耳がおかしくなったのではないかと、本気で思った。
そうでなければ、こんな言葉が聞こえるはずがない。
「オリバー」
低く、けれど今まで聞いたことのないほど柔らかい声だった。
「君を妻に望みたい」
今度こそ、はっきりと聞こえた。
夢でも聞かないような言葉が、現実の声で耳に落ちてくる。
妻に。
望む。
あまりにも甘い響きだった。
甘くて、優しくて、それなのに、ひどく残酷だった。
そんなことを言われてしまったら。
そんなふうに望まれてしまったら。
自分は、どうすればいいのだろう。
息が、うまく吸えなかった。




