Act.15 返したくない理由
Side グルド
冬支度の報告書は、見ていて気が滅入るものばかりだった。
修道院の屋根の一部は板の差し替えが必要。
孤児院の毛布は数が足りず、子どもの冬靴も半分ほどが継ぎ当てだらけ。
薪は例年より早めに確保しなければ、今年の冷え込みには耐えられないだろう――と、そういった話がずらりと並ぶ。
だが、その中に混ざっている数字のいくつかは、今までの帳簿よりも明るかった。
レース仕事の売り上げ。
村娘たちに広げられた手仕事。
それをまとめるための新しい帳面。
どれも大きな額ではない。
だが、小さな収入の流れがいくつも生まれている。
その端緒を作ったのが、オリバー嬢だ。
俺は書類を見下ろしながら、深く息を吐いた。
ただの客人のはずだった。
噂の悪女のはずだった。
見合いの助言をしてもらうために連れて来られた、厄介な公爵令嬢のはずだった。
それがどうだ。
礼儀作法を叩き込まれ、
使用人たちにはレースを教え、
修道院の仕事の形を整え、
孤児院の繕い物の癖まで見抜き、
気づけばこの家の中に、ひどく自然に馴染んでいる。
そして、俺の頭の中にも。
「旦那様」
執事の声に顔を上げる。
「修道院の改修ですが、表向きは『辺境伯領内施設の冬支度支援』として処理いたしました」
「……ああ」
「不自然には見えぬ程度に、孤児院の衣類費もそちらへ寄せております」
「分かった」
短く返しながら、視線はつい窓の外へ流れた。
中庭が見える。
乾いた秋風の中、メイドたちが洗濯籠を抱えて行き来している。
その少し向こう、回廊の柱のそばに、オリバー嬢の姿があった。
今日は深い青の昼のドレスだ。
地味といえば地味だが、あの人が着ると妙に目を引く。
隣にはメアリーとリアンがいて、何やら布を広げて見せている。刺繍の見本だろうか。
オリバー嬢はその布を覗き込み、少しだけ首を傾げたあと、指先でどこかを示す。
メアリーが「まあ!」と目を丸くし、リアンが慌てて頷いた。
それを見て、オリバー嬢が笑う。
作った笑みではない。
礼儀作法の教師として見せる整った笑顔でもない。
ここ最近、時々だけ見せる、気の抜けた、本当の笑みだった。
あれを見るたびに、胸の奥が妙にざわつく。
「……すっかり馴染んだな」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
バルク叔父上が書類から顔を上げる。
「誰がだ」
「オリバー嬢が」
叔父上は窓の方を見て、ふむ、と鼻を鳴らした。
「そうだな。もう使用人どもは半分くらい『うちの奥様候補』みたいな目で見てるぞ」
「やめろ」
反射的に返したが、声がわずかに低くなった。
バルク叔父上がにやりと笑う。
「嫌か?」
「……嫌ではない」
言ってから、自分で少し驚いた。
だが、驚くほどでもないのかもしれない。
もう、ずいぶん前から分かっていた。
オリバー嬢が笑えば嬉しい。
疲れていれば気になる。
無理をしているのが見えれば腹が立つ。
役に立つから手放したくないのではない。
礼儀作法を教えてくれるから便利なのでもない。
いてほしいのだ。
この家に。
俺のそばに。
「……返したくない」
ぽつりと落ちた声に、執事がぴくりと眉を動かした。
「旦那様?」
「修道院に」
自分でも、何を言っているのかよく分かっていた。
「戻したくない」
執務室にしばらく沈黙が落ちる。
バルク叔父上は、それを茶化さなかった。
執事もまた、無駄な相槌を打たない。
ただ、二人ともこちらを見ていた。
俺は椅子の背にもたれ、窓の外のオリバー嬢から目を離さずに続けた。
「最初は違った。噂もあったし、厄介な女が来たとしか思ってなかった」
メアリーが何か言い、オリバー嬢が少し困ったように笑う。
その仕草が目に焼きつく。
「でも違った。あの人は、ずっと踏ん張ってた。俺の領地の中で、俺より先に、俺の知らないところで」
胸の奥に、あの刺繍が浮かぶ。
白い布の上の鷹と剣。
あれほど綺麗に家紋を縫える人間が、自分のことになると驚くほど何も望まない。
「可哀想だからじゃない」
はっきりと言う。
「助けたいからだけでもない」
そこでようやく、俺は二人を見た。
「妻にするなら、あの人がいい」
声にした瞬間、妙に静かに腑に落ちた。
そうだ。
俺はもう、とっくにそこまで来ていたのだ。
辺境伯夫人として有能だから。
礼儀も仕事もできるから。
もちろん、それもある。
だが、それだけなら別の女でもいいはずだ。
そうじゃない。
怒る顔も、笑う顔も、困る顔も、教師ぶる顔も、時々どうしようもなく弱そうに見える横顔も。
それごと欲しいと思ってしまった。
バルク叔父上が、ゆっくりと息を吐く。
「ようやく、そこまで認めたか」
「認めるも何も、もう誤魔化せない」
「ふむ」
叔父上は腕を組み直した。
「なら、改めて聞くが」
「何だ」
「今のお前のそれは、義務か? 責任か? 同情か?」
まっすぐな問いだった。
俺は少しだけ考える。
義務なら、別の女でいい。
責任なら、修道院に金を入れれば済む。
同情なら、手を差し伸べるだけでいい。
だが俺が欲しいのは、そんなものじゃない。
「違う」
答えは、すぐに出た。
「俺があの人を欲しいんだ」
その言葉に、執事が静かに目を伏せた。
バルク叔父上も、今度はちゃんと頷く。
「なら、まあ、ひとまず安心だな」
「何がだ」
「少なくとも、お前が一番やっちゃいけない間違いはしないってことだ」
俺は眉をひそめた。
「まだ何かあるのか」
「あるに決まってるだろう」
叔父上はあっさり言う。
「欲しいと思うのと、手に入るのは別だ」
その言葉に、喉が詰まる。
分かっている。
嫌というほど分かっている。
オリバー嬢は、自分の幸せを拒む。
必要とされることにはしがみつくくせに、自分が望まれることには怯える。
だからこそ、あの人を妻にしたいなら順序を間違えてはいけない。
執事が静かに言う。
「旦那様。オリバー様が今、この屋敷に落ち着いて見えるのは、役目があるからです」
「礼儀作法か」
「それだけではありません。レースも、刺繍も、メイドたちへの指導も、ようやく『ここでも役に立てる』と思い始めておられるのでしょう」
「……ああ」
たしかにそうだ。
最初の頃より、あの人は少しだけ屋敷の中で息をしやすそうにしている。
それは、歓迎されたからだけじゃない。
役目を見つけたからだ。
「ですが」
執事の声が一段低くなる。
「それでも、あの方の根にあるのは『私はいずれ帰る』という考えでございます」
「帰る場所があるからか」
「ええ。そして、自分はそちらへ戻るべきだと思っておられる」
窓の外では、オリバー嬢が布を畳み、メアリーたちに何か言い含めている。
それから三人で回廊の向こうへ歩いていく。
その背中を見ながら、俺は歯を食いしばった。
帰るべき、か。
「……返したくない」
今度は、さっきよりはっきり言った。
バルク叔父上が口元を緩める。
「だからと言って、すぐ口説くなよ」
「分かってる」
「本当にか?」
「たぶん」
「不安しかないな」
即答されて、思わず睨む。
だが叔父上は平然としていた。
「いいか、グルド。お前はようやく自覚した。そこまではいい。だが、今のまま求婚すれば、オリバー嬢はまず断る」
「……だろうな」
「しかも、ただ断るだけで済めばまだいい」
そこから先は、言われなくても分かる。
あの人は身を引く。
迷惑をかけたと考える。
下手をすれば、何も言わずに自分から消えようとする。
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
「だから、先に作れ」
バルク叔父上の声は、珍しく真面目だった。
「オリバー嬢がいてもいい理由を」
執事も続ける。
「教会と孤児院の安定。屋敷での役割。使用人たちとの関わり。領主である旦那様との信頼。ひとつずつ積んでいくしかございません」
「ずいぶん遠回りだな」
「遠回りではございません」
執事は即答した。
「それが最短です」
俺はしばらく黙った。
それから、ゆっくりと息を吐く。
難しい。
礼儀作法よりも、魔物退治よりも、よほど厄介だ。
だが、不思議と逃げたいとは思わなかった。
むしろ、ここで諦める方が嫌だった。
「……分かった」
バルク叔父上が片眉を上げる。
「何がだ」
「急がない」
自分に言い聞かせるように、はっきり言う。
「でも、諦める気もない」
その言葉に、バルク叔父上が笑った。
執事もまた、ほんの少しだけ口元を和らげる。
「なら、まあ上出来だな」
「ええ。ようやく旦那様らしくなられました」
「どういう意味だ」
「そのままの意味でございます」
返す言葉が見つからず、俺は机に肘をついて額を押さえた。
困る。
本当に困る。
好きになった相手に、好きだとすぐに言えない。
必要だと、いていいと、少しずつ分からせなければならない。
しかも相手は、こちらが手を伸ばせば逃げる類の女だ。
面倒だ。
厄介だ。
難しい。
だが、やっと分かった。
それでも手放したくないと思えるから、俺はあの人を妻にしたいのだ。
窓の外では、秋の終わりの陽が、静かに屋敷を照らしていた。
冬は近い。
けれど、その寒さが来る前に。
俺は俺で、やるべきことをやらなければならない。
オリバー嬢が、ここにいてもいいと思えるように。
そして、いつか――自分の意志で、ここに残りたいと思えるように。
そのためなら、遠回りでも構わない。
そう、初めて本気で思った。




