表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪女と呼ばれた月下の真珠は、野獣辺境伯の妻になりました  作者: まるちーるだ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/49

Act.15 返したくない理由

Side グルド


冬支度の報告書は、見ていて気が滅入るものばかりだった。


修道院の屋根の一部は板の差し替えが必要。

孤児院の毛布は数が足りず、子どもの冬靴も半分ほどが継ぎ当てだらけ。

薪は例年より早めに確保しなければ、今年の冷え込みには耐えられないだろう――と、そういった話がずらりと並ぶ。


だが、その中に混ざっている数字のいくつかは、今までの帳簿よりも明るかった。


レース仕事の売り上げ。

村娘たちに広げられた手仕事。

それをまとめるための新しい帳面。


どれも大きな額ではない。

だが、小さな収入の流れがいくつも生まれている。


その端緒を作ったのが、オリバー嬢だ。


俺は書類を見下ろしながら、深く息を吐いた。


ただの客人のはずだった。

噂の悪女のはずだった。

見合いの助言をしてもらうために連れて来られた、厄介な公爵令嬢のはずだった。


それがどうだ。


礼儀作法を叩き込まれ、

使用人たちにはレースを教え、

修道院の仕事の形を整え、

孤児院の繕い物の癖まで見抜き、

気づけばこの家の中に、ひどく自然に馴染んでいる。


そして、俺の頭の中にも。


「旦那様」


執事の声に顔を上げる。


「修道院の改修ですが、表向きは『辺境伯領内施設の冬支度支援』として処理いたしました」


「……ああ」


「不自然には見えぬ程度に、孤児院の衣類費もそちらへ寄せております」


「分かった」


短く返しながら、視線はつい窓の外へ流れた。


中庭が見える。


乾いた秋風の中、メイドたちが洗濯籠を抱えて行き来している。

その少し向こう、回廊の柱のそばに、オリバー嬢の姿があった。


今日は深い青の昼のドレスだ。

地味といえば地味だが、あの人が着ると妙に目を引く。


隣にはメアリーとリアンがいて、何やら布を広げて見せている。刺繍の見本だろうか。


オリバー嬢はその布を覗き込み、少しだけ首を傾げたあと、指先でどこかを示す。

メアリーが「まあ!」と目を丸くし、リアンが慌てて頷いた。


それを見て、オリバー嬢が笑う。


作った笑みではない。

礼儀作法の教師として見せる整った笑顔でもない。

ここ最近、時々だけ見せる、気の抜けた、本当の笑みだった。


あれを見るたびに、胸の奥が妙にざわつく。


「……すっかり馴染んだな」


気づけば、そんな言葉が口から出ていた。


バルク叔父上が書類から顔を上げる。


「誰がだ」


「オリバー嬢が」


叔父上は窓の方を見て、ふむ、と鼻を鳴らした。


「そうだな。もう使用人どもは半分くらい『うちの奥様候補』みたいな目で見てるぞ」


「やめろ」


反射的に返したが、声がわずかに低くなった。


バルク叔父上がにやりと笑う。


「嫌か?」


「……嫌ではない」


言ってから、自分で少し驚いた。


だが、驚くほどでもないのかもしれない。

もう、ずいぶん前から分かっていた。


オリバー嬢が笑えば嬉しい。

疲れていれば気になる。

無理をしているのが見えれば腹が立つ。


役に立つから手放したくないのではない。

礼儀作法を教えてくれるから便利なのでもない。


いてほしいのだ。


この家に。

俺のそばに。


「……返したくない」


ぽつりと落ちた声に、執事がぴくりと眉を動かした。


「旦那様?」


「修道院に」


自分でも、何を言っているのかよく分かっていた。


「戻したくない」


執務室にしばらく沈黙が落ちる。


バルク叔父上は、それを茶化さなかった。

執事もまた、無駄な相槌を打たない。


ただ、二人ともこちらを見ていた。


俺は椅子の背にもたれ、窓の外のオリバー嬢から目を離さずに続けた。


「最初は違った。噂もあったし、厄介な女が来たとしか思ってなかった」


メアリーが何か言い、オリバー嬢が少し困ったように笑う。

その仕草が目に焼きつく。


「でも違った。あの人は、ずっと踏ん張ってた。俺の領地の中で、俺より先に、俺の知らないところで」


胸の奥に、あの刺繍が浮かぶ。


白い布の上の鷹と剣。

あれほど綺麗に家紋を縫える人間が、自分のことになると驚くほど何も望まない。


「可哀想だからじゃない」


はっきりと言う。


「助けたいからだけでもない」


そこでようやく、俺は二人を見た。


「妻にするなら、あの人がいい」


声にした瞬間、妙に静かに腑に落ちた。


そうだ。

俺はもう、とっくにそこまで来ていたのだ。


辺境伯夫人として有能だから。

礼儀も仕事もできるから。

もちろん、それもある。


だが、それだけなら別の女でもいいはずだ。


そうじゃない。


怒る顔も、笑う顔も、困る顔も、教師ぶる顔も、時々どうしようもなく弱そうに見える横顔も。

それごと欲しいと思ってしまった。


バルク叔父上が、ゆっくりと息を吐く。


「ようやく、そこまで認めたか」


「認めるも何も、もう誤魔化せない」


「ふむ」


叔父上は腕を組み直した。


「なら、改めて聞くが」


「何だ」


「今のお前のそれは、義務か? 責任か? 同情か?」


まっすぐな問いだった。


俺は少しだけ考える。


義務なら、別の女でいい。

責任なら、修道院に金を入れれば済む。

同情なら、手を差し伸べるだけでいい。


だが俺が欲しいのは、そんなものじゃない。


「違う」


答えは、すぐに出た。


「俺があの人を欲しいんだ」


その言葉に、執事が静かに目を伏せた。

バルク叔父上も、今度はちゃんと頷く。


「なら、まあ、ひとまず安心だな」


「何がだ」


「少なくとも、お前が一番やっちゃいけない間違いはしないってことだ」


俺は眉をひそめた。


「まだ何かあるのか」


「あるに決まってるだろう」


叔父上はあっさり言う。


「欲しいと思うのと、手に入るのは別だ」


その言葉に、喉が詰まる。


分かっている。

嫌というほど分かっている。


オリバー嬢は、自分の幸せを拒む。

必要とされることにはしがみつくくせに、自分が望まれることには怯える。

だからこそ、あの人を妻にしたいなら順序を間違えてはいけない。


執事が静かに言う。


「旦那様。オリバー様が今、この屋敷に落ち着いて見えるのは、役目があるからです」


「礼儀作法か」


「それだけではありません。レースも、刺繍も、メイドたちへの指導も、ようやく『ここでも役に立てる』と思い始めておられるのでしょう」


「……ああ」


たしかにそうだ。


最初の頃より、あの人は少しだけ屋敷の中で息をしやすそうにしている。

それは、歓迎されたからだけじゃない。

役目を見つけたからだ。


「ですが」


執事の声が一段低くなる。


「それでも、あの方の根にあるのは『私はいずれ帰る』という考えでございます」


「帰る場所があるからか」


「ええ。そして、自分はそちらへ戻るべきだと思っておられる」


窓の外では、オリバー嬢が布を畳み、メアリーたちに何か言い含めている。

それから三人で回廊の向こうへ歩いていく。


その背中を見ながら、俺は歯を食いしばった。


帰るべき、か。


「……返したくない」


今度は、さっきよりはっきり言った。


バルク叔父上が口元を緩める。


「だからと言って、すぐ口説くなよ」


「分かってる」


「本当にか?」


「たぶん」


「不安しかないな」


即答されて、思わず睨む。

だが叔父上は平然としていた。


「いいか、グルド。お前はようやく自覚した。そこまではいい。だが、今のまま求婚すれば、オリバー嬢はまず断る」


「……だろうな」


「しかも、ただ断るだけで済めばまだいい」


そこから先は、言われなくても分かる。


あの人は身を引く。

迷惑をかけたと考える。

下手をすれば、何も言わずに自分から消えようとする。


胸の奥に、冷たいものが落ちる。


「だから、先に作れ」


バルク叔父上の声は、珍しく真面目だった。


「オリバー嬢がいてもいい理由を」


執事も続ける。


「教会と孤児院の安定。屋敷での役割。使用人たちとの関わり。領主である旦那様との信頼。ひとつずつ積んでいくしかございません」


「ずいぶん遠回りだな」


「遠回りではございません」


執事は即答した。


「それが最短です」


俺はしばらく黙った。


それから、ゆっくりと息を吐く。


難しい。

礼儀作法よりも、魔物退治よりも、よほど厄介だ。


だが、不思議と逃げたいとは思わなかった。


むしろ、ここで諦める方が嫌だった。


「……分かった」


バルク叔父上が片眉を上げる。


「何がだ」


「急がない」


自分に言い聞かせるように、はっきり言う。


「でも、諦める気もない」


その言葉に、バルク叔父上が笑った。

執事もまた、ほんの少しだけ口元を和らげる。


「なら、まあ上出来だな」


「ええ。ようやく旦那様らしくなられました」


「どういう意味だ」


「そのままの意味でございます」


返す言葉が見つからず、俺は机に肘をついて額を押さえた。


困る。


本当に困る。


好きになった相手に、好きだとすぐに言えない。

必要だと、いていいと、少しずつ分からせなければならない。

しかも相手は、こちらが手を伸ばせば逃げる類の女だ。


面倒だ。

厄介だ。

難しい。


だが、やっと分かった。


それでも手放したくないと思えるから、俺はあの人を妻にしたいのだ。


窓の外では、秋の終わりの陽が、静かに屋敷を照らしていた。

冬は近い。


けれど、その寒さが来る前に。

俺は俺で、やるべきことをやらなければならない。


オリバー嬢が、ここにいてもいいと思えるように。

そして、いつか――自分の意志で、ここに残りたいと思えるように。


そのためなら、遠回りでも構わない。


そう、初めて本気で思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ