悪夢の一年 その始まり
悪夢の年。
天正十一年をそう言って呪ったことだろう。
もちろんそれは織田家以外の者が、という限定付きであり、織田家中の者にとって光り輝く一年ということになるのだが。
その一年が動き出すのは、正月が明け、しばらく経った二月。
九州攻めの先鋒たる毛利勢だった。
実をいえば、毛利は九州の一部についても勢力範囲であった。
だが、信長との戦い、その後の降伏などの混乱の最中に拠点であった門司城も失い九州は毛利の勢力範囲外となっていた。
そして、対毛利戦の中心となっていたのが誰あろう大友義鎮。
その大友家を助けるなど御免こうむりたいところであったのだが、現状を考えれば口が裂けてもそのようなことを言うわけにはいかない。
だが、それと同時に龍造寺氏に鞍替えしていた秋月種実が占領していた門司城奪還の理由も手に入れていた。
正月の拝謁の際に毛利輝元、吉川元春、それに形式上独立し四国勢となっていた小早川隆景が信長に九州攻めの拠点にするため門司攻めを願い出る。
小さな城などすぐに落ちると胸を張って。
むろん、信長が拒む理由などない。
許可する。
こうして、毛利勢は長門から渡海、門司城攻めを開始。
信長による九州攻めが始まる。
むろん衰えたとはいえ、現在の毛利は背後を気にすることなくほぼ全軍で攻め入ることができる。
その数一万。
対する門司城の守備兵及び種実の援軍、併せて六千。
あきらかに守備側が劣勢だった。
だが、そこに龍造寺隆信が鍋島直茂などそうそうたる者たちとともに救援にやってくる。
一万八千。
形勢は逆転する。
この状況に慌てたのが第二陣として北九州に上陸、そのまま南下するつもりであった秀吉である。
もちろん、毛利の敗北は直接的には自身の失態ではない。
だが、ここで門司城の占領ができず、四国勢、さらに光秀たちの助力を得るような状況になれば、信長からの信頼は完全に失墜。
九州におけるあらたな領地を得るなど夢のまた夢。
それどころか、敗戦の責を問われ播磨の召し上げもあり得る。
そうはならなくても養子としている信長の四男秀勝へ当主交代は十分あり得る。
豊前の戦いが終わったところで次期毛利家当主信長の五男織田信房を立てて悠々と上陸する予定を変更し、秀吉は与力だけではなく自身の直属部隊も含め、あわせて二万を上陸させる。




