島津の豊後侵攻
門司城を巡る秀吉率いる織田軍と、秋月、龍造寺連合軍との戦いは膠着状態に入る。
秀吉は使者を送り大友義鎮に龍造寺の背後を襲うように要請する。
相当な上から目線の書で。
むろん、大友家の実質的当主義鎮はそれに応じなかった。
いや、実は応じることができなかったのだ。
攻め入るはずだった日向から島津義弘率いる島津軍二万五千が豊後に押し寄せてきていたのである。
むろんこれは龍造寺と連携したものではない。
だが、それと同時にこのような事態になることも読んでいた。
「何が援軍を寄こせだ。援軍が欲しいのはこちらの方だ。デカい口を叩くだけの傲慢猿が」
秀吉からの書を破り捨て、口汚く秀吉を罵った直後、自身の不運を盛大に嘆く大友義鎮だったが、実を言えば少しだけ運があった。
あと三日、義弘の行動開始が遅ければ、大友軍は主力を豊前に向け出発させており、がら空きになった豊後は島津軍に簡単に蹂躙されていただろうから。
とはいえ、手元には一万人もいない大友家にとってこの状況は一大事。
秀吉がアテにならぬ以上、残りは四国にいる織田信孝。
すぐに豊後への援軍を信孝に要請する。
だが、要請する側の事情など受ける側にとって知ったことではないのは信孝も同じ。
当初の計画では豊前を確保した毛利、羽柴の連合軍が四国勢に属する小早川隆景を残して南下、その後に第二陣として四国勢が毛利領から下関海峡を越え豊前に上陸し西方に進むはずだったのだから。
そうは言っても、このまま状況を放置していては豊後が落ちかねない。
讃岐国天霧城で出撃準備中だった大将の織田信孝は、城に来ていた義父となる三好康長、補佐役としてつけられている蜂谷頼隆の助言を受け、第一陣の西園寺公広、第二陣の長曾我部元親を援軍として豊後に送り込むことを決定する。
信孝は九州の状況と自身の対応を信長に報告するため使者を送ったところで頼隆や三好勢などとともに自身も九州へ乗り込む準備を急ぐ。
一方、秀吉の九州侵攻が始まったのを知って動き出したのが奥州遠征軍の指揮官柴田勝家だった。
安土に出向き信長に出陣の挨拶をした直後、雪解けを待たずに動き出す。




