九州攻めの陣立て 発表
天正十一年正月。
比較的安定した年明けだったこともあり、多くの将が新年のあいさつと称して安土城にやってきていた。
そこで発表される。
九州攻めの陣立てを。
大将。
織田信孝。
先鋒。
織田信房、毛利輝元、吉川元春。
羽柴秀吉、羽柴長秀、宇喜多秀家、南条元続、宮部継潤。
来島通総。
本隊。
蜂谷頼隆、三好康長、小早川隆景、長曾我部元親、西園寺公広、河野通直、その他四国国衆。
得居通幸。
先鋒は豊後に上陸した後に大友義鎮とともに九州東岸を南下し島津を叩く。
本隊は筑後を中心に勢力を伸ばしている龍造寺氏へ向かう。
後詰も用意する。
基本は本隊への援護。
大将。
津田信澄。
副将。
明智光秀。
本隊。
細川藤孝、高山右近、中川清秀、池田恒興、筒井順慶、多羅尾綱知・野間康久・池田教正。
この九州攻めの陣立てで、信長は新しい秩序を示した。
いわゆる方面軍の司令官である秀吉や光秀の上位に自身の息子や甥を置いた。
すなわち、織田家の者による全国支配をおこなうという宣言したに等しい。
さらに、秀吉に加えて光秀を九州攻めに投入し、別ルートに進撃するわけなのだが、これは両者が持つ相手に対するライバル意識を利用している。
それと同時に、豊後からの南下ルートは本来日向守である光秀が、筑前守である秀吉が龍造寺氏を叩く西進するルートを担当するのが正しいと思えるのだが、なぜか逆。
もちろん、これは信長がある意図を持っていることを示している。
すなわち、来るべき織田幕府における九州の拠点、「九州探題」が置かれる予定の大宰府を秀吉ではなく、光秀に任せるつもりだということだ。
ただし、光秀は天正十一年の誕生日が来ると六十七歳になる。
その重要な役職を長く任せるのは年齢的に少々難しい。
そうなると本命は光秀の娘を娶った津田信澄。
そして、その補佐役は光秀と息子の光慶、与力のひとりである細川藤孝の子忠興ということになる。
そこまではこの時点ではすべてが信長の頭にあるだけのプラン。
むろん発表されていない。
ちなみに、光秀の生年ははっきりとわかっていないのだが、ここでは一番可能性が高いとされる栄正十三年(1516年)ということにしている。




