人助け
突き刺さってきているのは、声だけじゃない。冷たい視線も、ファイルの鎧の隙間を縫って全身に痛みを生じさせている。
「それで、何してるの?」
事務所はコの字の部屋となっており、入り口に立たれてしまっては、退路がないのと同義。
あたしは今、絶体絶命の状態にいる。
「それ、持ち出そうとしてないよね?」
正直に話そうものなら、この人はあたしを止める他ないだろう。かと言って、嘘をつける状況でもない。
言葉の選択を一つミスるだけで、この場を脱する確率が一気にゼロにまで墜落してしまう。
「ねぇ、何か話しなさいよ」
この人は事務所内に入り、扉を閉めた。
「体調、悪いんでしょ?」
驚いたことに、この人は不自然なあたしが答えるのを待たずして、作業に取り掛かり始めたのだ。
「さっきの子も、学校に行ってから発熱したらしくて、私も気をつけないといけないな」
パソコンの起動音が、静かな事務所で反響している。
「……私は止めないから」
そーっと事務所の扉まで歩いていると、この人は言葉を放り投げてきた。
「返さなくていいからね」
何を返さなくてもいいのか、この人は言葉を続けなかった。
この状況だけを見るなら、ファイルだと思うのが自然な流れなのだが、実際、この人が返して欲しいと思うものはたくさんある。
時間、金、恩、ハストちゃん。
この人の言い方的に、あたしが何をしようとしているのかはバレていることだろう。
でも、正直なことは話したくない。
だって、もうここに戻ってくることはないから。
だから、あたしはこの人に何かを返すことは、そもそもできないのである。
本日をもって、蜜柑アリスは"夢の箱"を退所する。
「行ってらっしゃい」
事務所の扉のドアノブに手をかけると、包み込むような言葉に背中を襲われた。
先ほどかけられた言葉とは打って変わって温かく、優しく、眠ってしまいそうなほど心地の良いものだ。
そんな感覚に、補給したばかりの涙が外へ逃げ出そうとしている。
「初めから、そうしててよ」
言葉として認識されないほどに小さく呟く。
本日の天気は晴れだと聞いていたが、だんだんと雲が厚くなっていく。
太陽は勝手に昇るが、意地悪な雲が隠すこともしばしばある。
陽の光に晒されていないと、こんなにも肌寒いのか。いや、あの人の言葉があんまりにも温かかったから、寒暖差で余計に寒く感じるだけかもしれない。
そんな温もりを置き去りにするように、肺の中へ大量に冷たい空気を流し込み、あたしは夢から目覚める。
「多すぎでしょ」
公園のベンチに腰掛け、ファイルの鎧を脱ぎ、積み重ねていく。
あまりの高さに不安定なファイルはゆらゆらと揺れ、今にも崩れてきそうだ。
それならば、崩れる前に目を通せばいい。ハストちゃんの情報を仕入れることさえできれば、このファイルは用済みとなる。
だったら縦に積む必要はなかったなと、ファイルに目を通しながら頭に浮かんできた。
「あった」
三冊目にしてハストちゃんの情報が早くも見つかった。
本名は佐藤 蓮斗。名前だけ見ると男の子みたいだな……男の子の可能性あるくない!?
幼少期は容姿だけで性別を判断するのは難しい。加えてあたしは他人に関心があまりなかった。今もそうだけど。
だから性別を間違えるくらいのことはしてもおかしくないわけで、今では超絶イケメン男子になってるかもしれない。
一瞬だけ、胸がドキッとした。
恋ではなく、興奮だ。
こうしちゃいられないと思い、ファイルを投げ飛ばして走り出す。
背後で何かが崩れる音がしたが、それはもうあたしに必要のないものである。
しばらくしてファイルを投げ飛ばしてきたことを後悔することになった。
記憶の片隅にしまったはずの住所の記憶がどこかへ逃げてしまったようだ。
走っていたあたしの足は、牛のように遅くなってしまった。
「でも、確かこの辺だと思うんだけど」
本名が佐藤なだけで、引き渡された家族の苗字がそうであるわけではない。
個人情報保護のためか、引き渡し先の苗字は書かれておらず、住所のみが記載されていた。
どうしてそんなややこしい記載の仕方なのか、あたしには到底理解できない。
思い出せば、職員はあの人一人で、家事やら何やら全ての事を一人でこなしていたし、超人だったのかもしれない。
一人なら尚更データを多く保管する必要があると思うけど、まぁ、理解しなくてもいいことだ。
ないとは思うけど、あの人に次会ったら頭を下げるくらいはしてもいいかなと思う。
なんだか感謝する人が急に増え出したな。保健室の先生もこのリストに追加しておくか。
記憶の海をプカプカと浮かんでいると、学ランを着た短髪の青年がおばあさんと会話しているのが視界に入ってきた。
「持ちましょうか?」
どうやら荷物を肩代わりしようとしているようだ。
「わたしゃ助かるけど、お嬢ちゃんに頼んでもいいのかい?」
学ランを着ているのだから男の子のはずなのだが、おばあさんの目には女の子として映っているみたいだ。
「ぼ、私に任せてください。人助けが趣味なんで」
青年はおばあさんが左手に持っていた大きなレジ袋を受け取った。
「ありがとう、優しいんだねぇ」
その姿に、おばあさんは頭を下げた。
「じゃあ、あたしはこっちの持つよ!」
他人が頭を下げるところを初めて見た。悪い意味ではなく、良い意味で。
あたしはおばあさんの右手にあったレジ袋を優しく奪う。
「……アリ、ス?」
青年はあたしの頭から爪先までを舐めるように視線を行ったり来たりさせている。
「あたしの名前知ってるの?」
体のどこかに書かれているのかと思い、隈なく全身を探して回る。
「お友達かい?」
歩き始めてから、おばあさんが尋ねてきた。
「古くからの友達です」
見ず知らずの青年なのに、あたしのことを友達と呼んでくれた。
「あたしは友達だと思ってないけど。だって、今初めて会ったんだし」
あたしと青年の話が矛盾しており、おばあさんは困った様子であたしたちを交互に見ている。
「そうなのかい?」
おばあさんが青年に尋ねる。
「違うよ。僕たちは友達だろ?」
知らない男の人にいきなり友達認定って、これってまさか……
「ナンパ!?」
「違うよ!!??」
青年は光の速さで否定してきた。
いきなり大声でやり取りし始めたために、おばあさんは驚いて体を震わせている。
「あ、ごめんなさい、いきなり」
青年が頭を下げる。悪い意味で。
「あのね、あたしが友達だと思ってるのはハストちゃんだけなの」
残念ながら、あたしは初対面の人を友達だと呼べるほど人ができてない。
「じゃあ、友達じゃん!」
「"じゃあ"って何よ」
青年は左手に持っていた鞄をその場に置き、片手で漁り始めた。
「これ!僕の学生証!」
眼前に掲げられた学生証には、十数分前に見たのと酷似した名前が記載されていた。




