ファイルの鎧
体中から水分が消失するほど涙を流した後、あたしは干物のようにベッドで横になっている。
「教室に戻る気は?」
保健室の先生がカーテンから顔だけを覗かせて尋ねてくる。
「ない」
枯れ切った声で答えると、スポッと顔が引っ込んでいった。
少しは落ち着いた気でいるけど、気のせいかもしれない。
しばらくしたら背後からの孤独に、また体を震わせることになるかもしれない。
何もしないでいると、目の前にあったはずの孤独がどんどん遠ざかっていく。
あたしに、教室のあの空気を受け入れる強さがあれば。
「ここにいるって聞いたんですけどー」
外から声が聞こえてくる。
時刻は……ここからじゃうまく時計が見えない。
体感的には昼前といったところだろうか。
「何しにきたの?」
誰と話しているんだろう。
「心配して見にきただけですよ?」
さっきのとは違う声が聞こえてきた。女子生徒は一人じゃなさそうだ。
「ねぇ、ここにいるんですよね?」
すぐ近くから声が聞こえる。カーテンが透けて、シルエットがやんわりと見える。
「そこを開けて、他の子だった場合のことを考えてちょうだい」
先生は鋭い言葉で注意する。
「冗談じゃないですかぁ」
カーテンにかけられた手が離れ、シルエットが遠のいていく。
「ここは騒ぐとこじゃないから、用がないなら帰って」
机をトントンと指でつつくような音が聞こえてくる。
「用はあったんだけどなぁ」
その声を最後に、会話は幕を閉じたらしく、扉の閉じる音が聞こえる。
今の二人は、多分クラスの人だ。あたしを探しにきたんだろう。きっと、悪い意味で。
多分と言ったのは、クラスの人の声ですら、判別するほど意識して聞いてこなかったからだ。
それに、声というものはその時の感情や状況によって変わるもので、今だって明らかに悪意が乗せられていた。
その悪意を育んだのは、他でもないこのあたしだ。
「早退していい?」
天井を見つめながら尋ねる。
「クラスの子の声を聞いて怖くなっちゃったの?」
この声は、あたしを煽ってきている。
「そうじゃなくて、ここにいても進むのは時間だけ。あたしは置いてけぼりになっちゃうだけだから」
あたしは、答えを見つけるために動かなくちゃいけない。
「哲学じみたことを言い出してどうしたのよ。本当に体調崩したんじゃない?」
勝手に戻ってこないのなら、あたしが迎えに行くしかない。
「多分、いや、これは間違いなく風邪引いちゃった」
あたしは、ハストちゃんに会いに行く。
「担任に伝えておくわ。制服は明日取りに来ればいいからね」
先生の声は、優しくて温かい。先生は感情が一定ではないようだ。
「よっと」
勢いよく体を起こしたせいで、頭がクラクラする。
焦点が合うまでじっと視点を固定し、時を待つ。
パイプ椅子の上に用意されていたペットボトルを開け、水を体へ注ぎ込む。
寒い日に飲む水は、体の中に入っていく感覚すらわかるほどに冷たい。けれど、それが気持ちいい。
水を一気に飲み干し、カバンの中へしまう。
……カバン?
「先生、このカバンって?」
それは紛れもなくあたしが学校に持ってきているカバンで、本来であれば教室に身を置いているはずのものなのだが。
「全員が全員、あなたの本心を見極められてないってわけじゃないってことよ」
結局、誰が持ってきてくれたものなのかはわからなかった。
クラスの子なのか、見ず知らずの子なのか、担任なのか、保健室の先生なのか。
今はさほど重要ではないけど、頭を下げるくらいのお礼はいつかしたいと思っている。
──ありがとう、どこかの誰かさん。
あたしは目的地の不明な言葉を宙へ放り投げる。
全力疾走で"夢の箱"に帰り、事務所にあるファイルに片っ端から目を通す。
ここには過去に施設を訪れた子から、検討中の子までありとあらゆるデータが記載されている。
昼前のこの時間、あの人は施設を空けている。買い物に出掛けているのだ。
施設を利用する子が減ってきて、今では全員が学校に通っている。だから、この時間に施設にいる子はいない。故にあの人がここに居続ける理由もないのだ。
「あ」
鼓膜が声をキャッチしたのと同時に、その方へ顔を向かせる。
「どうして」
学校に行ったはずの子が、不思議そうにあたしの顔を見つめている。
「どうかした?」
曲がり角の先からあの人の声が聞こえてくる。
状況がわからない。とにかく、このままじゃまずいことだけは確か。
あの人に見つかることだけは避けなくてはならない。
「……静かにしてる」
あたしは咄嗟に跳ね、天井に張り付いた。そして、男の子に向かって"静かに"のハンドサインを示す。
「……?よくわからないけど、あなたが向かうのはこっちじゃなくて、あっちだよ」
男の子は終始あたしのことを見つめていた。あの人がそのことに気が付かなくてよかった。
男の子はあの人に背中を押されながら、どこかへ向かった。
ハストちゃんが施設を利用していたのは十年以上前のことだ。
十年を超えたデータは一括で『十年以上前』というファイルで括られている。
この場でゆっくりと見ている時間がない以上、持ち出してから見る必要がある。
ここであたしの変な特技が活かされるとは思ってなかった。
急いでファイルを次から次へと体に貼り付けていく。
胴体に貼り付けられたファイルは、まるで鎧のようにあたしの体を守っている。
──カ、カッコイイ……
いやいや、好奇心を抑えろ、アリス。
とりあえず、この場から離れ──
「今、学校から連絡があったわ」
冷たく、錐のような声が、鎧を突き破って背中に突き刺さってくる。




