ハストちゃん
目を覚ますと、すでに夜が更けていた。
昼間降っていた雨は、どこかへいなくなっていた。
「太陽は、どこ?」
夜の空を見上げることが初めてだったため、太陽も雲もない空が不思議で不思議で仕方ない。
「夜に太陽なんて、ヒック、あるわけないでしょ」
お姉さんの声、なんだけど、いつもと比べて声が揺れている。
「じゃあ、どこに行っちゃったの?」
空から視線を移すことなく尋ねる。
「知らない。探しに行けば?」
その言葉で、鼓動が加速するのを感じる。
「それって、外に出ていいってこと?」
再び尋ねる。今度は視線を顔の高さに戻して。
「はぁっ?ダメよ、外に出ちゃ。あんたまだ三歳でしょ?死ぬよ」
外に出ると、どうやら死ぬらしい。死ぬということが何を指しているのかはよくわかっていない。
「太陽探しに行けないじゃん」
お尻を軸に、体を半回転させる。
「太陽はね、勝手に昇ってくるのよ、バカね」
お姉さんは口からよだれを垂らしながら、その場で横になった。
「あたしは、バカじゃない、アリス」
そこで、昼間の記憶が蘇ってくる。
「ハストちゃん……!!」
意識が消えゆく中で、誰かの声が耳に出入りしていた。
あの声は間違いなくハストちゃんだ。
「ハストちゃんは!?」
横になったお姉さんに尋ねるも、返答はない。
「お姉……さん?」
顔を覗き込むと、大きないびきをかきながら、静かに眠っていた。
頭の中に残された言葉の意味を知るため、あたしは施設内を探し回る。
寝室、食堂、玄関、リビング、トイレ、お風呂、廊下、クローゼット、洗濯機、秘密基地。
どこにもいなかった。
「……何してんだ?」
寝室で眠る子たちの顔を念入りに確認していると、背後に大きな影が体を覆うように近づいてきていた。
「ハストちゃんは?」
二回り体の大きい男の子だった。
「ハスト……?誰だそいつ」
男の子は大きなあくびをしてから、倒れ込むように再び眠りについた。
「ハストちゃん、どこに行ったの?」
この日、あたしの前から太陽と友達がいなくなった。
お姉さんが、太陽は勝手に昇ってくると言っていたが、ハストちゃんについては何も言ってくれなかった。
ハストちゃんの口から「楽しい」という言葉を聞きたかったのに、それが叶うことはなかった。
友達も、太陽と同じで勝手に戻ってきてくれるのだろうか。
幼いあたしは、そんなありもしない希望を頼りに、先の人生を歩むことを決意した。
「アリス!!!」
施設に帰ってくると、またしても耳をつんざくような金切り声があたしの耳を襲う。
「ま、待ちなさいって!!!」
そんな声を気にも留めずに自室へと向かう。
「アリス!アリス!!」
あたしは彼女の名前を知らない。あたしは自分のと友達の名前しか記憶していない。
「これ」
自室にカバンを置いてから、踵を返して階段を降りる。
彼女は立ち位置的には保護者なため、学校からもらってきたプリントを手渡す。
「先生から電話があった。どうしてあんなことしたの!?」
プリントを渡すのと同時に振り返って歩き出そうとしたが、咄嗟に手首を掴まれた。
「痛いんだけど」
背中で睨みつけながら、静かな怒りを露わにする。
「それはあんたが言うセリフじゃない。あんたが傷つけた子が言うセリフよ」
手首を掴む力が強くなっていく。
「離してよっ!!」
「なら、話してよ!!!」
あたしの声をさらに上回る声量で、彼女は叫んだ。
「ここに来た時から怖い子だと思ってたけど、それは私がそう感じてるだけだと思ってた。だから、あれ以降は他の子とできるだけ同じように接してきた。なのに、なんであんただけ、アリスだけおかしな方向に育っちゃったのよ」
あたしは、あなたに育てられた覚えはない。あたしの心身は勝手に育った。太陽が昇るのと同じ。
「それで?」
こうなってしまった理由が知りたいのなら、残念ながら答えは一生出ないだろう。
あたし自身もどうしてこうなったのか知らないから。
「……は?何それ、喧嘩売ってんの?」
はぁ、どうしてこうなっちゃったんだろう。
「ただい……ま……」
他の子たちが帰ってくる時間だ。
いつものように「まただ……」という視線を向けてくる。
「……ご飯できたら呼ぶから」
手首がスルリと解放される。
「あたしだって……わかんないのに……」
一人になると、自然と涙が出てくる。
一人になると、孤独を強く感じる。
一人になると、あの時を思い出す。
「ハストちゃんはどこに行ったの?」
お姉さんの足の上に座って尋ねる。
「新しい家族のところに行ったんだよ」
お姉さんが悲しそうに答える。
「"かぞく"って?」
そんなあたしの問いに、お姉さんは笑みをこぼした。
「知らないんだ」
バカにされた気がして、踵でお姉さんの脛を蹴る。
「こらっ」
返しに頭にポンと拳が降らされた。
「教えてよ、"家族"」
お姉さんはあたしの頭を撫でながら話し始める。
「一緒にいて、幸せだなと感じる人たちのことだよ」
友達とは少し違うようだ。
「友達とは違うんだ」
頭の中に新たに疑問が浮かび上がる。
「"しあわせ"って?」
お姉さんはあたしを立たせる。
「温かいってことだよ」
天井のシミを数えるたびに、このやり取りを思い出してしまう。
今日、学校で一人の女の子をいじめた。
誰かを庇おうとしてでもなく、何か意味があっての行動でもなく、ただ単にいじめた。
授業中、後ろから髪を抜き続け、消しカスを投げ続け、昼休みには給食のカレーをわざとその子の机の上にぶちまけてやった。
そうしたら、その子は泣きながら教室を出て行ってしまった。
どうしてそんなことをしてしまったのか、あたしにもわからない。
布団の上で、ひどく後悔している。
それでも、日を跨げば再び手を黒く染めてしまう。もう、染まる部分なんてないのに。
「ご飯」
階下から、一言だけ飛んでくる。
中学生にもなったというのに、あたしの心はまだ、冷たいままだ。




