第六章 南の男
ヴァルグ族の集落には、南方の人間が想像するような無秩序はなかった。
確かに王国の都市ほど石造建築は多くなく、文字を読める者も少ない。しかし、土地や家畜を巡る争いには細かな慣習法があり、族長の権限も絶対ではなく、重要な決定には各家の長が集まる会議が必要だった。
アルベルトはその仕組みに驚いた。
王国では、北方の部族は族長の一声で戦争を始める野蛮人とされていたからである。
「お前たちは南の人間を、みんな軟弱な嘘つきだと思っているのか」
ある日、フレイヤに尋ねた。
「全員ではない」
「安心した」
「商人は嘘つきで、貴族はもっと嘘つきで、王族は一番嘘つきだと思っている」
アルベルトは黙った。
フレイヤは彼の横顔を見てから、少し間を置いた。
「悪かった」
「いや」
アルベルトは雪の上に視線を落とした。
「否定できない」
二人は狩りから戻る途中だった。
フレイヤの傷は既に治り、アルベルトより長く山を歩いても息一つ乱れない。
「お前は違うのか」
「分からない」
「またそれか」
「自分で自分を善人だと言う男ほど信用できないだろう」
フレイヤは少し笑った。
その冬、集落では深刻な食糧不足が起きた。
前年の秋に雨が長く続き、保存していた穀物の一部に黴が生えたためだった。
ハーコンは周辺部族から食糧を買うことを考えたが、同じように不作のところが多く、価格が上がっている。
アルベルトは倉庫を見て回った。
王国公爵領で領政を学んでいた頃、飢饉対策として父と共に穀物倉を整備した経験がある。
「倉庫の床を上げましょう」
会議で言った。
男たちが彼を見る。
「地面から湿気が上がっている。床を石と木で二重にして、壁の上部に空気穴を作れば、腐る量を減らせる」
「今冬の食い物は増えん」
「ええ。だから今年は南へ毛皮を売ります」
「冬に?」
「冬だから高く売れる」
アルベルトは王国との国境近くにいる商人たちを知っていた。
かつて公爵令息として会った者たちではなく、追放後に知り合った小商人たちである。
彼らを通じて毛皮を売り、穀物を買う。
差額を抑えるため、輸送路を変更する。
最初、部族の長老たちは南方人の提案に難色を示した。
ハーコンは決めなかった。
「お前がやれ」
アルベルトに言った。
「失敗したら?」
「責任もお前が取れ」
「随分簡単ですね」
「簡単なことを難しく話すのは南の貴族の癖だ」
アルベルトは少し笑った。
交易は成功した。
大きな利益ではなかったが、冬を越すだけの食糧を確保できた。
翌年、倉庫を改修した。
さらに、水車を利用した製粉施設を作り、夏には川沿いの湿地を排水した。
ただし、アルベルトが何かを教えるたび、彼もまた何かを教えられた。
山の天候。
家畜の移動。
薬草。
雪の下での道の見つけ方。
部族間の婚姻が政治とどう結びついているか。
土地を私有する王国とは違い、森や放牧地を共同で利用する考え方。
何年か経つ頃には、アルベルトは南方人でありながら、北方の会議で発言することを許されるようになった。
同じ頃、父レイモンドは体調を崩し始めた。
追放から七年目の冬。
父は寝台の上で、息子を呼んだ。
「ここは、悪くないな」
窓の外には雪が降っていた。
「王都より寒いですが」
「人間の話をしている」
アルベルトは椅子に腰を下ろした。
「お前の顔が変わった」
「老けましたか」
「少しな」
父は薄く笑った。
「だが、以前よりよく人を見る」
アルベルトは黙っていた。
「王宮にいた頃のお前は、正しいことをすれば正しい結果になると思っていた」
「……そうだったかもしれません」
「今は?」
「正しいことが何かを、まず疑います」
「なら、少しはまともになった」
その夜、父は長く眠った。
三日後、静かに息を引き取った。
墓は北方の丘に作った。
石碑には、公爵とは刻まなかった。
レイモンド・グランフェルト。
夫。
父。
それだけだった。
葬儀の後、アルベルトは一人で墓前に残った。
王国を恨んでいるかと問われれば、今も恨んでいた。
エドワードを許したわけでもない。
セシリアを忘れたわけでもない。
しかし、それらを考えない日が増えていた。
朝になれば仕事があり、家族がいて、フレイヤがいる。
二十代後半になったアルベルトの人生には、過去とは別の時間が積み重なり始めていた。




