第五章 北の地
王国北部を越えた先にある土地を、南の人々は一括して蛮族領と呼んでいた。
地図には大まかな山脈と河川しか記されず、国境線も曖昧で、王国の学者が記した書物では、そこに住む者たちは粗野で好戦的な異民族として描かれている。
しかし、実際にそこへ足を踏み入れたアルベルトが最初に知ったのは、蛮族が恐ろしいということではなく、寒さが人間の身分を区別しないという事実だった。
北方へ入った最初の冬。
グランフェルト家は小さな交易村の外れに建つ古い館を借りた。
館と呼ぶには粗末で、屋根の隙間から雪が入り、壁には風が通る。公爵家の者たちは薪を割り、水を汲み、食べ物を確保するところから始めなければならなかった。
母エレナは一度も不平を言わなかった。
妹マリアも侍女と一緒に台所に立った。
弟カールは元騎士たちから狩猟を学んだ。
アルベルトも、斧を握った。
最初の頃は手の皮が裂けた。
宮廷では剣を扱えても、凍った薪を割る技術は別物だった。
「公爵令息の手ではないな」
ある夕方、父がそう言った。
アルベルトは赤く腫れた掌を見た。
「もう公爵令息ではありません」
「そうだったな」
父は笑った。
それから一年ほど経った頃、アルベルトは村の商人に同行し、さらに北の集落へ向かった。
塩と鉄器を運び、毛皮と薬草を買い付ける交易だった。
帰路、山間部で争いに巻き込まれた。
異なる部族同士の小規模な戦闘だった。
商隊は道を外れて森へ逃げたが、その途中、谷底近くで倒れている女を見つけた。
まだ若い。
革鎧を身につけ、腰には短剣。
太腿から血を流していた。
「置いていけ」
商人が言った。
「どちらの部族か分からん。拾えば面倒になる」
アルベルトは女の傍に膝をついた。
意識はある。
灰色がかった青い瞳が、警戒するように彼を見ていた。
「名は」
返事はなかった。
言葉が違うのかと思ったが、女はやがて南方語で言った。
「触るな」
「そのままなら死ぬ」
「お前には関係ない」
「そうだな」
アルベルトは傷を見た。
深いが、動脈までは達していない。
「それでも置いてはいけない」
「なぜ」
その問いに、アルベルトは少し考えた。
「以前、父に生きろと言われた」
女が眉を寄せる。
「だから?」
「人に言われて生き延びた人間が、死にかけている者を置いていくのは、少し都合が悪い」
商人が呆れた顔をした。
結局、女を馬車に乗せた。
三日後。
追跡してきた騎馬隊が商隊を囲んだ。
アルベルトは剣に手を伸ばしたが、倒れていた女が馬車から降りた。
北方語で何かを叫ぶ。
騎馬隊の者たちは一斉に馬から降り、膝をついた。
アルベルトはそこで初めて、助けた女がただの戦士ではないと知った。
名はフレイヤ。
北方でも有力なヴァルグ族の族長、ハーコンの娘だった。
数日後、アルベルトはヴァルグ族の集落へ招かれた。
巨大な木造の館で、族長ハーコンと向き合う。
白髪交じりの大男だった。
「娘を助けたそうだな」
「偶然です」
「偶然で人を拾う者は少ない」
ハーコンは酒の入った杯を差し出した。
アルベルトは受け取った。
「望みは何だ」
「ありません」
「金か」
「必要ありません」
「土地か」
「今のところは」
ハーコンは笑った。
「南の貴族は、もっと欲深いものだと思っていた」
「私はもう貴族ではありません」
「なら何者だ」
アルベルトは答えようとして、止まった。
公爵令息ではない。
王太子の側近でもない。
反逆者ではないと自分では知っているが、王国ではそう呼ばれている。
「分かりません」
正直に答えた。
ハーコンはしばらく彼を見た。
「なら、ここで見つければいい」
その言葉が、アルベルトの北方での第二の人生の始まりとなった。




