第二章 小さな亀裂
疑念というものは、最初から大きな形をして現れるわけではない。
それは普段なら気にも留めない言葉の端や、誰かが向けた視線の中に生まれ、意識してしまえば、昨日までと同じ景色を別のものに変えていく。
エドワードにとって、アルベルトは長い間、自分の一部に近い存在だった。
少年時代の剣術では、アルベルトの方が先に上達した。
学問でもそうだった。
十二歳の頃、王国史の試験でアルベルトが満点を取り、エドワードが二問を間違えたとき、家庭教師は笑いながら言った。
「殿下には良い競争相手がおられますな」
あの頃は、素直にそう思えた。
十五歳になる頃には、競争する必要すら感じなくなっていた。
王となるのは自分であり、アルベルトは自分を支える。
得意なものが違うだけなのだと。
ところが二十歳を過ぎ、王太子として実際の政務に関わるようになると、その差は別の意味を持ち始めた。
エドワードが提出した政策案が評価される。
その案をまとめたのはアルベルトだった。
エドワードが軍務会議で的確な判断をする。
前夜、アルベルトと二人で検討した結論だった。
外国使節の前でエドワードが巧みに交渉する。
事前に相手国の事情を調べた資料を作ったのもアルベルトだった。
誰も公然とは言わない。
それでも、王太子の優秀さを称えた後で、人々はしばしばこう付け加えた。
「良い側近をお持ちです」
最初は誇らしかった言葉が、いつしか胸の奥に残るようになった。
その頃、王太子付きの侍従長補佐として、新しく宮廷へ入った男がいた。
オスカー・ヴァレン。
子爵家の次男で、三十代半ば。柔らかな物腰と、相手が望む言葉を察することに長けた男だった。
ある夜、エドワードは晩餐会を終えて自室へ戻り、オスカーから葡萄酒を受け取った。
「殿下はお疲れでございます」
「毎日のことだ」
「次代の王として、皆が殿下に期待しておりますので」
オスカーはそれ以上言わず、杯に酒を注いだ。
エドワードは一口飲み、窓の外を見た。
「今日も軍務卿はアルベルトの意見ばかり聞いていたな」
独り言のような言葉だった。
オスカーはすぐには答えなかった。
「グランフェルト公爵令息は有能でございますから」
「分かっている」
「ただ」
そこで言葉を切った。
エドワードが振り返る。
「何だ」
「有能な臣下は、王にとって何よりの財産でございます。しかし、あまりに大きな財産は、時に持ち主の存在を見えにくくすることもございます」
「どういう意味だ」
「申し訳ございません。差し出がましいことを申しました」
オスカーは頭を下げ、その話を続けなかった。
その沈黙の方が、言葉より長くエドワードの中に残った。
一方、アルベルトは何も知らなかった。
彼は来年に控えた婚姻の準備と王太子府の政務、公爵家の後継者としての仕事を抱え、忙しくも満ち足りた日々を送っていた。
ある休日、王都郊外にあるローゼン侯爵家の別邸を訪れた。
庭園の奥には小さな池があり、そのほとりに古い東屋が建っている。
幼い頃、三人で何度も遊んだ場所だった。
セシリアはそこで刺繍をしていた。
「珍しいな。今日は本ではないのか」
「いつも読んでいるわけではありません」
アルベルトが隣に腰を下ろすと、彼女は布を膝の上に置いた。
刺繍されていたのは、公爵家の紋章である銀の狼だった。
「私のためか」
「まさか。自分のためです」
「では、返してもらわなくてもいいな」
アルベルトが手を伸ばすと、セシリアは布をさっと引いた。
「まだ完成していません」
「完成したら?」
「その時に考えます」
唇に浮かんだ笑みを見て、アルベルトは追及しなかった。
風が木々を通り抜け、池の水面を揺らしていく。
「最近、殿下の様子が少し違う気がするの」
不意にセシリアが言った。
アルベルトは彼女を見た。
「何かあったのか」
「分からない。あなたと一緒にいるとき、時々、以前と違う顔をする」
「仕事が増えたから疲れているのだろう」
「そうかしら」
「即位が近づいている。陛下も政務の一部を殿下に任せ始めた。考えることが増えれば、人間は変わる」
セシリアは少し考え、それ以上は言わなかった。
アルベルトにとって、エドワードを疑うという発想自体がなかった。
翌月、北西部に駐屯する王国軍第三師団から、王都へ報告書が届いた。
通常の軍務文書だった。
しかし、その中に一通だけ、存在しないはずの書簡が紛れ込んでいた。
差出人はアルベルト・グランフェルト。
宛先は第三師団所属の騎士団長。
そこには、王都で政変が起きた場合に軍を南下させる準備を整えておくよう記されていた。
署名も筆跡も精巧だった。
同じ頃、グランフェルト公爵家と取引のある商会の帳簿に、不自然な金の流れが書き加えられた。
さらに、公爵領の武器庫では、存在しない武器二千本の記録が作られた。
一つ一つなら、調べれば不自然さに気づく者もいただろう。
しかし、それらは同じ時期に、同じ方向を指すよう配置された。
反乱。
王位簒奪。
王太子暗殺。
オスカーは書類を揃え、深夜、王太子の私室へ運んだ。
エドワードは長くそれらを見つめた。
「本物なのか」
「調査した者たちは、そう判断しております」
「アルベルトが……」
言葉が止まる。
「私は断定しておりません」
オスカーは静かに答えた。
「ただ、殿下。グランフェルト公爵家には王国最大級の領地があり、独自に動員できる騎士もおります。そしてアルベルト様は軍部、官僚、貴族のいずれからも信頼が厚い」
「だから何だ」
「もし、あの方が王位を望んだなら」
エドワードは顔を上げた。
オスカーはそこで黙った。
「そんなことはない」
エドワードの声は低かった。
「アルベルトはそんな男ではない」
「私もそう願っております」
その夜、エドワードは眠らなかった。
夜明け前。
机の上に置かれた偽造書簡を見ながら、少年時代を思い出した。
剣術で負けた日のこと。
試験で負けた日のこと。
重臣たちがアルベルトを褒める声。
そして何より、自分が何かを決めるたび、周囲がアルベルトの顔を見ること。
疑念は証拠から生まれたのではなかった。
証拠は、既に胸の奥にあった疑念に形を与えただけだった。




