第一章 王太子の隣
アルベルト・グランフェルトが、自分の人生を疑ったことは、それまで一度もなかった。
王都リューデンの中央を東西に貫く大通りには、春の終わりを告げる白い花が咲き、王宮へ続く石畳の上を馬車が静かに行き交っていた。朝の政務を終えたアルベルトは、王太子執務室の窓辺に立ち、机の上に残された書類を一枚ずつ整えながら、遠く城壁の向こうに広がる街並みを眺めていた。
二十一歳。
王国でもっとも古い家柄の一つであるグランフェルト公爵家の嫡男であり、幼い頃から王太子エドワードの学友として宮廷に出入りし、十八歳からは正式な側近として、その政務を支えていた。
やがて父から公爵位を継ぎ、同じ頃にはエドワードも王位に就くだろう。
そして、その傍らには自分がいる。
それは未来というより、既に決まっている事実のように思われた。
「まだやっているのか」
背後から声がして、アルベルトは振り返った。
王太子エドワードが、上着の襟元を緩めながら部屋へ戻ってくるところだった。金色の髪に青い瞳を持つ青年は、公式の場では父王を思わせる端正さを保っているものの、幼馴染であるアルベルトの前では、少年の頃と大して変わらぬ無造作な仕草を見せることがあった。
「殿下が署名だけして放り出していった書類を整理している」
「そういう言い方をする側近があるか」
「そういう仕事を側近に残す王太子も珍しい」
エドワードは少し笑い、机の向こう側へ回ると椅子に腰を下ろした。
二人きりのとき、アルベルトが必要以上に敬語を使わないことを許したのはエドワード自身だった。それでも人前では決して馴れ馴れしい態度を取らず、王太子と臣下という線を踏み越えない。
その節度を、エドワードは長く好ましく思っていた。
「それで、南部街道の修繕費はどうなった」
「三年計画なら財務卿も認める。初年度に主要橋梁、二年目に山間部、三年目に宿場と警備所を整備する。軍務省も兵站上の利益があるから反対しないだろう」
「お前が財務卿になれば早いのにな」
「公爵家を継ぐ人間を官僚の椅子に縛るつもりか」
「宰相ならどうだ」
その言葉に、アルベルトは少しだけ眉を上げた。
「まだ即位もしていないのに、自分の宰相を決めるな」
「だから今から決めておくんだ。お前なら安心できる」
あまりにも自然に言われたため、アルベルトも深く考えなかった。
幼い頃からそうだった。
エドワードが何かを思いつき、アルベルトが形にする。エドワードが前へ出て、アルベルトが後ろを固める。騎士の訓練でも、学問でも、狩猟でも、二人は競いながら、いつの間にか互いの不足を埋めるようになっていた。
午後になり、二人は王宮の西庭へ向かった。
そこには既に、一人の令嬢が待っていた。
セシリア・ローゼン侯爵令嬢。
アルベルトと同じ二十一歳であり、彼の婚約者だった。
淡い金髪を後ろでまとめ、若草色のドレスを身につけたセシリアは、二人の姿を見つけると、手にしていた本を閉じた。
「遅いわ」
「アルベルトが仕事を終わらせないからだ」
「殿下が仕事を残したからだ」
ほとんど同時に言った二人を見て、セシリアは声を上げずに笑った。
その笑い方も、アルベルトは幼い頃から知っていた。
三人は共に育った。
王太子と公爵令息と侯爵令嬢という身分を持ちながら、それを意識するより前から顔を合わせ、王宮の庭を走り、教師に叱られ、時には三人まとめて国王から菓子をもらった。
十五歳になった年、アルベルトとセシリアの婚約が正式に発表されたとき、エドワードは誰よりも喜んだ。
少なくとも、アルベルトはそう思っていた。
「結婚式はいつにするつもりなの」
庭園を歩きながら、エドワードが突然尋ねた。
アルベルトはセシリアを見た。
「来年の秋という話になっている」
「長いな」
「公爵家と侯爵家の婚姻だ。準備にも時間がかかる」
「私は春でもよかったのですけれど」
セシリアが静かに言う。
アルベルトが彼女を見ると、セシリアはわずかに目を細めた。
その表情を見て、エドワードは顔を背けた。
春の光の中で、三人の影が長く庭園の石畳に伸びていた。
この時のアルベルトには、それがいつまでも続くものと思われていた。
数日後、王国評議会が開かれた。
国王ロベルト三世を中心に、宰相、財務卿、軍務卿をはじめとする重臣たちが集まり、王太子エドワードも後継者として席を与えられている。アルベルトは正式な評議員ではなかったが、王太子側近として後方に控えていた。
議題は南部街道だった。
財務卿が修繕費について説明したあと、国王がエドワードに意見を求めた。
エドワードは立ち上がった。
最初は順調だった。
だが、山間部の警備所の配置について軍務卿から質問を受けたところで、言葉が止まった。
ほんのわずかな沈黙だった。
アルベルトは前へ出ず、手元の書類を一枚めくり、エドワードから見えるよう数字の部分を指した。
それだけだった。
エドワードはすぐに説明を続けた。
評議会が終わった後、老宰相バルディア伯爵がアルベルトに声を掛けた。
「よく準備しておられる」
「殿下のご指示です」
「御謙遜を」
老人は穏やかに笑った。
「殿下にはあなたがおられる。次代の王国も安泰でしょうな。陛下とグランフェルト公爵のご関係が、そのまま次代へ引き継がれるようで、我々老人には何より安心できる」
アルベルトは頭を下げた。
少し離れた場所にいたエドワードも笑っていた。
しかし、その笑みが消える瞬間を、アルベルトは見ていなかった。
老宰相が立ち去った後、エドワードは評議会室に残された二つの椅子を見つめていた。
一つは国王の椅子。
もう一つは、その傍らに置かれた王太子の椅子。
そして思い出していた。
軍務卿が質問した時、自分ではなく、後ろにいたアルベルトを見た者が何人いたのか。
父王が政策説明を聞きながら、何度アルベルトに視線を向けたのか。
幼馴染。
親友。
もっとも信頼できる臣下。
それらの言葉の奥に、別のものが混じり始めていた。
自分より優れている男。
そう考えてしまった瞬間、エドワードは長く椅子の背に手を置いたまま、動かなかった。




