第十章 消えなかった記録
王国から北方へ逃れてくる者が増えたのは、エドワード即位から七年ほど経った頃だった。
最初は商人。
次に職人。
やがて官僚や下級貴族まで現れた。
アルベルトは彼らを拒まなかった。
土地と仕事があれば受け入れる。
ただし王国への復讐話を持ち込む者には距離を置いた。
「陛下」
そう呼ぶ者もいた。
「私は陛下ではない」
毎回訂正した。
しかし北王という呼称は消えなかった。
追放からちょうど二十年となる春。
一人の老人が北方連合の首都となったヴァルグへやって来た。
名はヨハン・メルツ。
かつて王国司法省で書記官を務めていた。
六十を超え、片足を引きずっている。
「アルベルト・グランフェルト様にお会いしたい」
それだけを繰り返した。
アルベルトは会った。
会議室へ入ってきた老人の顔を見ても、すぐには思い出せなかった。
「二十年前、司法省であなた様の事件記録を扱いました」
その言葉で、空気が変わった。
フレイヤも同席していた。
アルベルトは老人に座るよう勧めた。
「何の用です」
「お返ししなければならないものがあります」
ヨハンは革袋を机に置いた。
中から書類の束を出す。
古い紙。
封蝋。
署名。
アルベルトは最初の一枚を読んだ。
手が止まった。
王太子府から司法省の一部官僚に送られた指示書。
日付は二十年前。
証拠品の筆跡鑑定結果を修正せよ。
その命令が記されている。
署名。
エドワード。
「これは」
「原本です」
次。
グランフェルト家の商会帳簿に架空取引を追加するよう命じた文書。
次。
北西軍の騎士に偽証を求めた記録。
さらに。
オスカー・ヴァレンが関与した者に金を支払った一覧。
最後の一枚。
エドワード自身の手紙。
――アルベルトが残れば、いずれ王位を脅かす。今のうちに除かねばならない。
アルベルトは読み終えた。
何も言わなかった。
フレイヤも黙っていた。
「なぜ今まで」
やがてアルベルトが尋ねた。
「怖かったのです」
老人は頭を下げた。
「私は若かった。家族もおりました。命じられるまま記録を処理しました」
「二十年です」
「はい」
「父は死んだ」
「存じております」
「母も三年前に亡くなった」
ヨハンは顔を上げなかった。
「申し訳ございません」
アルベルトは立ち上がり、窓辺へ行った。
外には市場が見える。
息子レオンは既に十九歳。
娘エルザは十六歳。
次男ロルフは十三歳。
二十年。
長い時間だった。
怒りだけで生き続けるには長すぎる。
忘れるには短すぎる。
「これを私に渡して、何を望む」
「何も」
「王国を倒してほしいと?」
「私は……」
老人は言葉を詰まらせた。
「王国は、もう長く持ちません」
アルベルトは振り返った。
「各地で反乱が起きています。税は払えず、軍は腐敗し、陛下は粛清を続けております。先月も将軍二人が処刑されました」
「私に何をしろと言う」
「お戻りください」
その言葉が部屋へ落ちた。
アルベルトは長く老人を見た。
やがて椅子に戻った。
「戻る場所はありません」
「ですが」
「私の父の墓はここにある」
ヨハンが黙る。
「母の墓も。私の妻は北の人間だ。子供たちはここで生まれた。私の家はここです」
「では……」
アルベルトは机の上の古い書類に手を置いた。
「戻るのではない」
フレイヤが彼を見る。
「もし南へ行くなら」
静かな声だった。
「征くのです」
その夜。
アルベルトは一人で二十年前の記録をすべて読んだ。
読み終わった時、夜明けが近かった。
最後にエドワードの署名に指を置く。
親友だった男の筆跡。
幼い頃から何百回も見ている。
見間違えるはずがなかった。
扉が開いた。
フレイヤだった。
「眠らなかったのか」
「眠れなかった」
「南へ行くのか」
アルベルトは書類を閉じた。
「行く」
「復讐か」
その問いにすぐ答えなかった。
「昔の私なら、そう言っただろう」
「今は?」
「この国のためでもある」
南方王国は北方との交易に高い関税を課し始め、近年は国境で商人を拘束する事件も増えていた。
北方連合が発展するほど、弱体化した王国との衝突は避けにくくなっている。
「便利な答えだな」
フレイヤが言った。
「自分でもそう思う」
「では、もう一度聞く」
彼女はアルベルトの正面に座った。
「復讐したいか」
アルベルトは長く沈黙した。
「したい」
それだけ答えた。
フレイヤは頷いた。
「なら、嘘はない」
彼女は立ち上がった。
「行こう」
「反対しないのか」
「お前が一人で行くなら止める」
「軍を率いれば?」
「私も行く」
アルベルトは妻を見た。
「二十年前の話だ」
「知っている」
「君には関係がない」
「お前は私の夫だ」
フレイヤは扉へ向かった。
「十分、関係がある」
翌日。
北方連合大会議の招集が決まった。




