僧侶の誕生
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僧侶の誕生
新しい時代の象徴として僧侶がいる。
550年頃に仏教を日本に入れて、その育成を進めていた。
仏教の導入というと宗教的な精神論が入ったと思うかもしれないが、これは基本的に国家運営のための方便なのだ。
ついでに中国や朝鮮半島で行われていた技術の流入も中国語の言葉を翻訳した事で日本独自の技術に発展する事になった。
仏教は言葉で上下間の規律や道徳心を啓発してくれる。
仏教は、国家宗教として行政の補佐を行う子供たちが準備されていった。
奈良のいくつかのお寺や下野の薬師寺で、僧侶の育成が進んでいた。
東山道は、高崎から足利を通り、小山を通過して下野薬師寺の横をとっていた。
小山の豪族の三男坊として生まれたその子は、12歳で薬師寺で童子になり、厳しい修行をした。
彼は、二十歳の頃に飛び出し、宇都宮に行った。
宇都宮の巫女のことを知っていたからである。
宇都宮の巫女は、この童子を可愛がり侍従として使うことにした。
彼が宇都宮をうろついていた頃、鳩が見つけ彼を観察していたからであった。
薬師寺で学んだ仏教は、真理としては確かなものであったが、世の中が動いている時期には退屈であった。
正直であったが利発な彼を見て、巫女が広場の親父に中に入るよう促したのであった。
彼は、宇都宮の巫女の所で、日光の縄文集落の連中の事やケヤキの巫女の話を聞いて、二年後、ケヤキの集落に入った。
また、時が立ち、741年。
国分寺が武蔵国の国府のあった府中の近くに生まれていた。
そこには、奈良の厳しいお寺で修行して国分寺の僧として働いていた男がいた。
彼は、国分寺に来た時には、既にかなりの年齢になっていた。
僧侶立ちのまとめ役をしていたが、退陣して関東を歩くことにした。
武蔵国の戸籍は半端であったし、税も少ない。
三殿台や北川辺からは、順当以上に税が取られたが、権現堂の竹藪の祠の祭祀が、大きな祝いなどで活躍していることを耳にしていて、その僧侶は、祭祀に会いに向かった。
下総国分寺は、市川の国府台の微高地に建つ立派な建物であったが、中身はカスカスだった。
周りの豪族も少なく、国府台尼寺に至っては、僧侶の数も足りなかった。
千葉にあった海の巫女の所は漁師の数も田んぼの数もゆとりがあった。
国分寺尼寺の尼様は、早々に千葉の海の巫女の所に身を寄せるのであった。
爽やかな海の香のする中、千葉の海は穏やかな海であった。
ミャー、ミャー、ミャー
海鳥が空を賑やかに飛び回っていた。




