平城京のある世界
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平城京のある世界
古い時代の事で、大きな歴史的流れの中に埋もれているかもしれないが、中国の唐の時代の長安は、人口が100万人を超える国際都市だった。
そして先に流入していた仏教は、国の統治機構にリンクされていた。
そこで長安をモデルに710年、平城京が誕生した。
古墳時代を経て、豪族と領民の役割がハッキリしてきて、兵などで田んぼを守ってもらい、収穫を豪族へ渡す。
集落の形が治まり、近畿圏での権力の形が、王権の親族で固まっていたが天皇という形に治まり、国としての形を見せ始めていた。
関東でも、武蔵国、下総国、陸奥国にそれぞれ国府が置かれ、国司なるものが登場した。
しかし、ケヤキの集落も権現堂では、お構い無しであった。
つまり、戸籍を作ろうが、税を徴収しようが、関係ないという状態であった。
関東では、三殿台の族長は豪族化して、巫女もいたので、国府から郡司となる事を指示されていた。
相手になるのは北川辺の族長が豪族となり、相手をしてる程度で、新たに出来た平城京への支配の姿は見えない状態であった。
ケヤキや権現堂では、藪の祠の際しの所に集まり、何やら話し合いが行われていた。
「ケヤキや権現堂でも豪族であろう、無視ばかりはできないぞ」
「司祭様、どうすれば良いでしょうか。」
「北川辺を通して、適当に対応するのじゃ。戸籍の話も税の話も北川辺を通じて納める。適当にな」
「豪族である必要があるのでしょうか。」
「領民のためじゃ、理窟を飛ばしても始まらん。争いが起きたら結局損だろう」
ケヤキのリーダーや権現堂の頭は宇都宮に行った世代から代替わりしていたが、祭祀の話に納得し、大きく頷いた。
「やり過ごすことじゃ、田んぼの収穫は適当に北川辺を通して納めれば、狩りの収穫は構わんじゃろう。」
今や、北川辺との共闘はなくなり、ケヤキでも、権現堂でも独自に狩りをしてもかなりの収穫になっていた。
ケヤキの集落では、長瀞での石の採取も忘れていなかった。
こうして、中央では平城京が動き始め、新たな統治の時代になっていたが、ケヤキや権現堂は、変わらずにいたのであった。
そして、象徴的な国分寺、国分寺尼寺の建設が、それぞれの国で行われていた。
大きな柱を朱色に塗った大きな伽藍が出来た。
屋根瓦はキラキラと輝く雲母が入れ込んでいて、いかにも凄いという建物が生まれていた。
青空に高く聳える伽藍は、デカイだけだと感じた。
仏教寺院らしいが頭を下げるものはいなかった。




