近畿圏の動き
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近畿圏の動き
奈良を拠点としていた近畿圏は、各豪族が、大王の親族として、その政治的な力をつけていった。
縄文系の住民は、渡来人の技術を利用することで、互いに混血しながら、田んぼ耕作を中心に平地で暮らす民へと変貌していた。
司祭の中心には伊勢の大巫女が、その力を占めした。
大巫女は、渡来人がもたらした米作に対して、的確な司祭をみせつけ、渡来人の大王との混血が行われることになる。
大王と大巫女の関係は神事としての司祭によって豪族たちの頭としての力を占めした。
子孫が生まれ、祭祀をしながら、その子の一人が伊勢に戻り大巫女として伊勢に君臨した。
そして伊勢では大巫女による巫女の卵の育成が行われることになった。
奈良では、引き続き大王の権威を親族が守り勢力としての近畿圏が生まれていた。
その共闘による勢力の維持は、続き、飛鳥の地が、都として成立していった。
この形が生まれるまでに数百年の時を必要としたが、九州に直接来た兵力も共闘という形で、取り入れることに成功し、大王の権威を示す古墳が生まれ、飛鳥に宮殿が生まれた。
6世紀になると、仏教が入ってきて大きく朝鮮半島との交流が強くなり、飛鳥寺が生まれていた。
この時の流れが大きな風の流れとなり、ケヤキの木が、その新たな動きを感じたのであった。
一つの王族の一族が、王権を抑えようとなったが、滅亡することになる。
そして朝鮮半島との交流は、中国の大国《唐》の拡大に巻き込まれることになる。
朝鮮半島では、いくつかの国が滅亡したり、戦乱に巻き込まれた難民が日本に来たりしていた。
九州地方や中国地方、近畿圏は、朝鮮半島や中国《唐》の影響を大きく受けていた。
国の形を決める口実が生まれていた。
遷都が続く中、戸籍が作られ、国民を把握するようになった。
また、豪族は独立した首領ではなく、王族を守る力として権威を作り上げていった。
王権の跡目相続の争いが生まれ、中央にいた豪族が駆逐され、地方の豪族が王権を守り、王権の権威が高くなった。
様々な王権での動きの後、藤原京が成立。
天皇の支配が成立する。
そして、さらに大宝律令が発布され、天皇が支配する形が安定した形で成立する。
そして、710年平城京への遷都が行われることになった。




