■ 第1話 「選ばれなかった側」
この物語は、「選ばれなかった側」の視点から描かれる物語です。
勇者の物語の裏で、選ばれなかった存在は何を見て、何を選ぶのか。
そんなところを楽しんでもらえればと思います。
目が覚めたとき、最初に感じたのは背中に伝わる冷たさだった。
硬く、わずかに湿り気を帯びた石の感触が、衣服越しにもはっきりと分かる。ゆっくりと息を吸い込むと、空気は乾いていて、どこか埃っぽい匂いが鼻に残った。しばらくそのまま動けずにいると、自分がどこか見知らぬ場所に横たわっているという事実だけが、遅れて現実味を帯びてくる。
「……ここ、どこだ」
声に出してみると、やけに軽い響きだった。壁に反響することもなく、空間に吸い込まれるように消えていく。その違和感に眉をひそめながら、ゆっくりと上体を起こし、周囲を見渡した。
そこは円形の空間だった。
段々に組まれた石の席が、すり鉢状に広がっている。規則正しく並んだその造りは、まるで劇場か、あるいは古い闘技場を思わせる。だが観客席に座っているはずの人々は皆、中央を見つめたまま静まり返っており、その空気には娯楽とは程遠い、張り詰めた緊張が満ちていた。
視線を自然と、その中心へと向ける。
一段低くなった場所に、ひとりの青年が立っていた。
「――その者が、勇者の資質を持つ」
低く、よく通る声が空間に響く。
白いローブを纏った老人が、ゆっくりと杖を掲げていた。その先にいるのが、中央の青年だ。黒髪で、まだ若い。年齢は二十前後といったところだろうか。周囲の視線を一身に受けながらも、どこか落ち着かない様子で辺りを見回している。
その光景を見た瞬間、頭の中にひとつの言葉が浮かんだ。
――勇者。
そしてもうひとつ、別の言葉が続く。
異世界転生。
「……は?」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
目の前で起きていることを、そのまま受け取るならそういう話になる。石造りの巨大な空間、儀式めいた雰囲気、勇者という単語。どれも、どこかで見聞きした“物語の型”にぴたりと当てはまる。
だが、その認識が腑に落ちたのと同時に、別の違和感が胸の奥に引っかかった。
「……なんで、あいつなんだよ」
自分でも理由は分からないまま、そんな言葉が口をついて出る。
中央に立っているのは、あの青年だ。
俺ではない。
「……おかしいだろ」
ゆっくりと立ち上がる。足元で石がわずかに擦れる音を立てた。数段下に見える中央の舞台までは、それほど距離があるわけではない。降りていこうと思えば、すぐにでも行けるはずの位置だ。
そう考えて、一歩踏み出す。
次の瞬間、見えない何かにぶつかった。
「……は?」
思わず足を止める。
目の前には何もない。だが、確かに進めなかった。試しに手を伸ばしてみると、そこにあるはずのない壁に触れているような、奇妙な感覚がある。ガラスのようでいて、触れた感触は曖昧で、確かにそこにあるのかどうかすら分からない。
押してみる。叩いてみる。だが、何も変わらない。
「降りられない……?」
視線を落とす。
すぐそこに、中央の舞台がある。あと数歩で届く距離だというのに、そこへ行くことができない。その事実がじわじわと実感を伴ってくるにつれ、胸の奥にざらついた不安が広がっていった。
中央では、儀式が続いている。
「名を告げよ、若き勇者」
老人の声に促され、青年がわずかに息を呑む。そして一瞬だけ迷うように視線を揺らしたあと、静かに口を開いた。
「……カイン、です」
カイン。
その名前が、妙に耳に残る。
「カインよ。そなたはこの世界を救う者として選ばれた」
その宣言を合図にするかのように、周囲の空気が一気に動いた。ざわめきが広がり、やがて歓声へと変わっていく。祝福の声が重なり合い、期待と羨望が渦を巻くようにして、中央の青年――カインへと注がれていった。
その光景を見ながら、胸の奥に引っかかっていた違和感が、少しずつ形を持ちはじめる。
「……違うだろ」
小さく呟いた声は、自分でも思っていたよりはっきりと響いた。
何が違うのかは分からない。だが、この状況そのものが、どこかでずれているような感覚がある。理由もなく焦りに似た感情が浮かび上がり、落ち着かない。
そのときだった。
カインの動きに、奇妙な違和感が走る。
儀式の一環なのだろう、差し出された剣を受け取ろうとした、その瞬間。ほんのわずかだが、彼の動きに“重なり”が見えた。
「……なんだ、今の」
思わず目を凝らす。
剣に手を伸ばす動きの奥に、薄くもう一つの動きが重なっている。ほんの一瞬だけ、後ろへ引くような動き。まるでそれを拒むかのような、別の選択。
瞬きをした瞬間、それは消えた。
だが確かに見えた。
もう一度、意識を集中させる。
すると、見える。
現実の動きに重なるようにして、揺らぐもう一つの可能性が。
「……分岐、みたいなもんか?」
自然とそんな言葉が口に出る。
なぜそんな認識が浮かんだのかは分からない。ただ、それが最もしっくりくる気がした。選ばれなかった動き。実際には起こらなかったはずの可能性。それが、まるで消えきらずに残っているかのように揺れている。
ゆっくりと、手を伸ばす。
触れられるのかどうかも分からない。それでも、確かめずにはいられなかった。
指先が、わずかにそれに重なる。
感触はない。だが一拍遅れて、頭の奥にざらついた違和感が走った。耳鳴りに似た短いノイズが、思考の奥をかすめる。
「っ……」
思わず息を詰める。
その瞬間、カインの動きがほんのわずかに遅れた。
剣を受け取る指先が、一瞬だけ滑り、わずかな空白が生まれる。本人すら気づかない程度の、ごく小さなズレ。それでも確かに、さっきまでとは違う動きだった。
「……ズレた」
自分の行動と、目の前の変化が結びつく。
理解が追いつかないまま、口元に乾いた笑いが浮かんだ。
「なんだよ、それ」
完全に変えたわけじゃない。結果そのものは変わっていない。ただ、その過程がほんの少しだけ歪んだ。
だが、その“ほんの少し”が、自分の手によるものだという確信だけは、はっきりとあった。
「……俺、何してんだ?」
誰に届くでもない問いが、静かに空間へ溶けていく。
中央では儀式が進み、勇者カインは剣を手にして歓声に包まれている。そのすぐ外側で、自分だけが切り離された場所にいる。
だが、完全に無関係というわけでもない。
「……触れられる」
ほんのわずかに、この物語へ干渉できる。
理由は分からない。仕組みも分からない。それでも、その事実だけが妙に現実味を帯びて胸に残る。
そのとき、カインがふと顔を上げた。
一瞬だけ、こちらに視線が向いたような気がする。
「……気のせい、だよな」
見えているはずがない。そう思いながらも、なぜか視線を逸らせなかった。だがカインはすぐに首を振り、何事もなかったかのように前を向く。
その様子を見届けてから、ようやく息を吐いた。
「……なんなんだよ、本当に」
ここがどこなのかも、自分が何なのかも分からない。ただ一つだけ確かなのは、これは“普通”じゃないということだ。
そして、普通じゃない以上、無視する理由もない。
ゆっくりと石の席に腰を下ろす。背中に伝わる冷たさは、最初に感じたときよりもはっきりと現実を主張していた。
視線は自然と、中央のカインへと向く。
選ばれた勇者。
物語の中心にいる存在。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この先、主人公が“何を見て”“どこまで干渉できるのか”が少しずつ見えてきます。
よければ引き続き読んでいただけると嬉しいです。




