約束
恐る恐る振り返ってみると、背後には予想通り最悪の人物が立っていた。人当たりの良い微笑みを浮かべた、二つ結びでお下げ髪の同級生。謝罪する機会を虎視眈々と狙いつつも、怯えが抜けずに実行できない、かつて傷つけてしまった幼馴染――金見久遠が。
まさかのタイミングでの遭遇。しかも向こうから接触してくるという不意打ち。これには面食らう他になく、しばしの間思考が停止してしまった。
「少し話したい事があるんだけど、今良いかな?」
「え、あ……う、うん……」
生じた僅かな隙に距離を詰められ手を握られてしまったため、最早逃げ出す事も出来なくなってしまう。小さな掌はとても柔らかく、滑らかで温もりに満ちた女の子の手だ。無論強引に振り解く事など造作も無い。赤子の手を捻るよりも簡単だ。
しかし光斗は久遠を一度傷つけてしまった大罪人。力尽くで逃げ出すなどという真似をしてもう一度傷つける事など、死んでも出来るはずがなかった。
「……ふふっ。暖かいな、光斗くんの手」
何より恐ろしいのは、眼鏡のレンズ越しに覗くワインレッドの瞳。かつて自分を傷つけたクソ野郎が目の前にいるというのに、憎悪や敵意が一切浮かんでいないのだ。
とはいえ静謐で澄んだ瞳というわけでもない。暴力的なまでに強大な何らかの強い意思が宿っており、迫力に気圧された光斗は完全に委縮してしまう。
どこか嬉しそうに微笑む姿すら、背筋に怖気が走る程恐ろしい。前髪で片目が隠れた状態でもこの有様なのだ。もしも双眸が露わとなっていれば、光斗は生娘の如き悲鳴を上げ腰を抜かしていたかもしれない。
「は、話って、何かな?」
内心の恐怖と動揺を押し殺し、彼女の左手の感触に戦々恐々しながらも問いを投げかける。何が何でも逃がさないという意思が行動の一つ一つ、表情の端々から感じられ、全く生きた心地がしない。
久遠が光斗に話があるなど、十中八九話題は一つ。かつて自分を傷つけた最低最悪のクズへ、復讐を果たす事に違いない。遂に裁かれる時が来たと安堵する反面、叫び出したいほどの恐怖に襲われ歯の根が合わなかった。
「実はね、光斗くんに大切なお話があるの。ただちょっと学校だと話辛くて……明日、予定空いてるかな?」
「う、うん、一応……」
「良かった。それじゃあ明日の午後一時十五分に、星宮タワーの展望デッキに来てくれるかな? そこで大切な話をしたいの」
この時、幾つもの疑問が脳裏に浮かんだ。
何故自分たちしかいないこの場では話せないのか。午後一時はともかく、十五分という微妙な時間は一体何なのか。何故わざわざ星宮タワーの展望台なのか。
普段なら気になって遠慮なく尋ねただろうが、相手は久遠。自分が傷つけてしまった幼馴染。深い負い目があるため疑問を尋ねる事も出来ず、素直に頷く他に無かった。
「……分かった。必ず行くよ」
諸々の感情や疑問を堪え口を開き、乾く舌と喉を酷使して必死に言葉を紡ぐ。気合を入れなければ声が裏返り、惨めに震えた泣き声を零しそうだったから。
「良かった。それじゃあ待ってるからね、光斗くん。遅れずに来てくれると嬉しいな?」
どうやらこの場での用事は約束を取り付ける事のみだったらしい。久遠は相好を崩し手を離すと、スカートを翻して去って行った。
舞い上がったスカートの裾から白い太腿が見えても、今の光斗には情欲など欠片も湧かない。処刑台で執行を待つかのような恐怖が過ぎ去った事による安堵しか湧かず、自然と腰が抜けてへたり込み壁に背を預けてしまうのだった。
「年貢の納め時、ってやつかな……」
間違いなく、久遠は約束の場所で光斗を糾弾するつもりに違いない。もしかすると展望台から光斗を突き落として殺すつもりなのかもしれない。今回はあくまでも処刑の日時と場所を決めただけであり、明日こそが執行の日なのだ。千の罵倒と万の呪詛で詰られ糾弾される覚悟は無いが、久遠に罪を被せぬよう自ら飛び降りる覚悟はある。どんな結末になろうとも、約束を反故にするという選択肢は無かった。
しばらく立ち上がれそうに無いので、とりあえずメールで明日の約束を翠に連絡しておいた。肩を並べて正義を成す活動をしている以上、個人的な事でも報連相は大事だ。
『――あたしも行くっ!』
そして十数秒後、わざわざ電話をかけてきた翠の第一声が鼓膜を貫いた。耳をつんざく大音量のせいで度肝を抜かれ、おかげで恐怖が多少は和らぐのであった。
「いや、お前は呼ばれてないだろ。そもそも何で来るつもりなんだ?」
『だってもしも久遠の言葉で光斗が傷ついたら、すぐに慰めてあげれるじゃん! そして傷心の光斗は女の子の温もりを欲して、あたしの身体に溺れるって寸法だよ!』
「十四歳のまな板が何言ってんだ。もうちょっと発育が良くなってから出直してこい」
『んなあぁぁぁ!? 気にしてる事を~っ!!』
だいぶ浅ましい発言をした翠に対し、容赦なく辛口で対応する。恨みがましい叫びが携帯から聞こえてきたものの、多少発育が足りないのは確かである。
尤も光斗としては胸の大きさに拘りは無いので、美少女の翠は十分ストライクゾーンである。本人が調子に乗るので絶対に言わないが。
「冗談はさておき、来てくれるのはありがたいよ。久遠に面と向かって憎々し気に罵られたら、ちょっと耐えられる自信ないしな」
『……光斗、怖がってる?』
「ああ。正直、凄く怖い。今夜は眠れなさそうだ」
未だ恐怖に震える手足に視線を下ろし、素直に弱音を吐く。
すでに光斗と翠はヒーロー活動を通して、お互いに心を許せる存在となった。身体的なコンプレックスに関する軽口も平気で叩ける仲であり、最早友人以上恋人未満と言って差し支えない。当然、自分の弱さを曝け出す事にも抵抗は無かった。
「だけど、これは俺の罪だ。久遠には俺を糾弾する権利がある。だからどんな言葉も裁きも、甘んじて受け止めるよ」
『……分かった。隅でこっそり見てるから、慰めて欲しくなったらいつでも言ってね?』
「ありがとう、助かるよ。お前は最高の相棒だ」
『今最高の女って言った!?』
「そこまでは言ってない」
唐突に別方向に解釈して舞い上がる翠に、携帯越しに突っ込みをいれる。瞳を輝かせ鼻息を荒くしているのがありありと目に浮かぶ反応だった。
とはいえ彼女の天真爛漫な言動と反応のおかげで、身体の震えは収まりつつあった。
『じゃあ明日、時間より早めに行って待機してるね! 光斗は明日、頑張って! あたしがついてるから!』
「ああ。ありがとう、翠」
純粋かつ暖かみに満ちた声援を貰い、感謝と共に通話を切る。手足の震えもほぼ静まっていたため、何とか立ち上がり屋上へと向かった。
扉を開けて視界に飛び込んでくるのは広々とした屋上の様子、晴れ渡る青い空に美しい街並み。心地よい風が吹き抜け頬を撫でる感覚に安らぎを覚えながら、周囲に人気が無い事を確認してから超音速で走り出した。
「いよいよ明日、か……」
校舎から飛び出し、街中を疾走し、音を置き去りにひたすら駆け抜ける。胸の中で疼く恐怖を吹き飛ばすために、全力で。普段なら高速で走るのは心地良い時間なのだが、今回ばかりは一向に胸の内は晴れなかった。
星宮タワーとは星宮市の中心に存在する、市でも一、二を争う高層建築物だ。高さは約三百メートルであり、東京タワーやエッフェル塔には僅かに劣る。
しかしたかが数十メートルの話。地上約二百メートルの位置に存在する大展望台の眺めは、高さの優劣など忘れ去る程の美しい光景を臨める最高の場所だ。頭上には無限に続く空があり、眼下には規則的に並ぶ建築物が織りなすコンクリートジャングルが縦横無尽に広がっている。自分がちっぽけな存在である事を思い知り、あるいは全てを見下ろす巨人になった気分が味わえるのは実に新鮮な体験だ。
特に夜景は素晴らしいもので、地上の光が星の瞬きのように見えるのだ。地上を走る車列が作る光の群れは、さながら宇宙に漂う天の川。地球上にいながら宇宙の輝きを一望できる、地元でも大人気の観光スポットだ。安全のためにガラス越しにしか景色を楽しめないのと、休日は人で込み合うのが難点と言えば難点である。
「思った以上に混んでるな? まあ連休だし仕方ないか」
そんな星宮タワーの展望デッキで、光斗は約束の人物を探し周囲を見回す。
時刻は午後一時。展望デッキには食事処もあるため、時間帯の問題で非常に込み合っていた。五月三日の憲法記念日、連休初日という状況も大いに影響しているのだろう。見渡す限り人で溢れており、壁際にでもいない限りどこにいても通行の邪魔になるほどだ。当然特定の個人を探すのは至難の業である。
「さすがに久遠はまだ来てないか? えーっと、翠は……」
ただし、場合によっては容易く見つけられる。具体的には少し離れた通路の曲がり角からこちらを覗き込む、サングラスとマスクと帽子を身に着けたトレンチコート姿の不審者とか。
悲しい事に、あの不審者こそが翠である。恐らく久遠にバレないように変装しているのだろうが、初対面のはずなので完全に無意味だ。むしろ見るからに不審人物なので逆に目立ってしょうがない。実際簡単に翠を発見できたのも、一目で分かる怪しさのせいで人々が距離を取っているからである。
「あんなんでも頼りになるのが悲しいなぁ……」
見るからに頭の中身が残念極まる、しかも中二病という病の持ち主。しかし仲間としては実に頼りがいのある相手だ。正義の心を持ち、誠実で気立ても良い。本当に自分には勿体ないくらいの優良物件である。
何にせよ、バックアップがある以上は安心だ。久遠に糾弾されて無様な醜態を晒す事になろうと、きっと翠が上手く連れ出してくれる事だろう。ならば光斗がすべきなのは久遠の怒りを甘んじて受け止め、伏して謝罪する事だけである。
それだけ、なのだが――
「……来ないな? もう約束の時間を十分も過ぎてるっていうのに」
緊張と恐怖で心臓が爆発しそうな状態で約二十五分。精神的にだいぶ参って来たにも拘わらず、未だ久遠は現れなかった。
人が多すぎるせいで巡り会えていないだけという可能性もあるが、翠にも久遠の特徴を伝え見かけたら連絡するよう指示してある。その上で光斗は己の意識を加速した状態で展望デッキを探し回っているというのに、久遠の姿は一向に見つからなかった。こうなるとそもそも展望デッキにはいないと考えた方が自然である。
「もしかして何かあったのか? ひとっ走りして確認に向かうべきかもな……」
何らかのトラブルならまだ良いが、事故などに巻き込まれていたとすれば気が気でない。自分の想像に背筋が凍った光斗は、すぐさま久遠の安否確認に向かう事を決めた。幼い頃に仲違いしてしまったので、連絡先を知らないのだ。
故に逸る気持ちを抑え、人込みを掻き分け外階段のある出入り口を目指す。
「――ね、ねえ光斗、今ちょっと良いかな?」
しかし途中で怪しさ抜群の不審人物、もとい翠が声をかけてきた。
「うわ、不審者が出た」
「何その反応!? ちょっと酷くない!?」
「ごめん、つい。それでどうかしたのか? もしかして久遠が見つかったのか?」
「ううん、そうじゃないの。ただちょっと伝えておきたい事があって。いや、杞憂なら良いんだよ? でも何か気になって……」
真面目な話なのか、翠はサングラスとマスクを外しながら語る。
しかし露わとなった表情は複雑であり、内容も判然としない。不安と緊張の狭間で揺れ動いている様子で、平静を失っている無い感じだ。
元々落ち着きのない子ではあるが、普段はその分を快活さがカバーしている。だが今の翠はまるで借りてきた猫のように大人しく縮こまっていた。
「……何かあったのか?」
「えっとね、ほら、あたしって金属を操れるでしょ? そのせいなのか、近くの金属を感じ取る事が出来るんだよね。まあそれくらい出来ないと自由自在に操る事は出来ないし、別に不思議な事じゃないっていうか? 人間金属探知機的な?」
声を潜めて問うと、妙に饒舌な口調で要領を得ない答えが返ってくる。
やはりどうにも様子がおかしい。まるで自分でも理由が分からない危機感を抱いているかの如き焦り具合だ。あるいは実際に口にする事を恐れているのかもしれない。
「翠、何かあるなら教えろ。手短に」
埒が明かないので少々強引に迫る。壁に手を付き逃げ場を塞ぎ、顔を寄せて瞳を覗き込む形で。俗に言う壁ドンの体勢だ。
普段なら翠は真っ赤になって然るべき行為なのだが、今回は僅かに頬を染めて乾いた笑いを零すだけであった。その反応もまた普段と比べると異常である。
「……何か、巨大な金属が近付いてきてる感覚があるの。それも凄い速さで、一直線に」
「近付いてきてる? 展望デッキにか? どれくらいの大きさなんだ?」
「えーっと、大きさならダンプカーの十倍くらいかなぁ? 重さなら二十倍くらい? それが空の向こうから、徐々に近づいてきてるような感覚があるな~って……アハハ……」
冷や汗を零しながら、どこか軽い調子で紡ぐ。自分の感覚が間違っていて欲しいと願っているかのようだが、彼女の強力な能力に間違いないあるはずもない。紛れもなく巨大な金属塊が接近しつつあるのだ。
ダンプカーの約十倍の大きさと二十倍以上の重量を誇り、空を行く金属の塊など思い浮かぶ物など一つしかない。光斗は翠と同様、背筋に寒気が走るのを堪えながら願うのだった。予想が間違っていて欲しいと、切実に。




