スピードスター
「……ここは、廃工場か」
すっかり夜の帳が下り、夕暮れの残滓も掻き消えた頃。寒さと不快感を堪えながらとぼとぼと家路についていた光斗は、不意に見かけた工場跡地へと足を踏み入れていた。
元々は重機などの大型車の修理工場だったらしい。ショベルカーやトラックなどの残骸や工具が錆び塗れで散らばっており、鉄錆びやオイルの刺激臭が鼻を突く。夜逃げでもしたか廃棄費用を渋ったか、いずれにせよ長い間人が踏み入っていない事は確かだった。
人気の無い廃工場は実に不気味であり、夜が訪れた今は一層恐ろしさに拍車がかかっている。幽霊でも出そうな雰囲気があるせいか人気が全く無い。程よい広さもあり、今から始める事を考えると実に整った条件の場所であった。
「何が何だか分からないけど、アレはたぶん病気の類じゃない。超能力とか、異能……そういう類の何かだ」
水の滴るカバンを工場の適当な場所に置くと、ネクタイを緩め濡れた衣服もズボンを残して全て脱ぎ去る。
頭どころか全身が冷えた状態で数十分ほど歩いていたため、冷静に考える時間は十分にあった。そして導き出された結論は、光斗は何らかの特殊能力を身に着けたという、常識的に考えればかなり馬鹿馬鹿しい仮説だ。当事者で無ければ光斗も一笑に伏した事間違いなしである。
だが特殊能力でもなければ説明が付かない事が起こっているのは紛れも無い事実。何より光斗には超常の何かと接した記憶がある。あの流れ星との邂逅だ。
前後の記憶が不明瞭なのでアレは夢という事にしたのだが、もしも現実だったと考えればどうだろうか。意思を持つように動く超音速の流れ星が、顔面に直撃したのだ。それでいて怪我が無いとくれば、やはり超常的な力が働いていると考えるのは自明の理。決して痛い妄想の果てに辿り着いた、とち狂った結論ではなかった。
「あれが幻覚や白昼夢の類じゃないなら、自分の意志で出来るはずだ。あの時の感覚を思い出せば、きっと……」
トタンの壁を背にしてクラウチングスタートの体勢を取りながら、目を閉じて不思議な出来事の数々に思いを馳せる。
これから行うのはあの力を制御するための特訓。制御不能ではいつ暴発して大惨事を巻き起こすか分かったものではない。万が一にも家族を巻き込むわけには行かなかった。
「あの時、俺は……急いでた」
思い返すと、不思議な出来事が起こった時の光斗は総じて何かに追われていた。遅刻への焦り、迫りくる時間、あるいは恐怖。それらに追い立てられていた。
その結果求めていたのはスピード。素早く歯磨きを終える速さ、遅刻を免れるための速度、久遠から逃げるための俊足。突き詰めればいずれもスピードを求めていたのだ。
「速く、走る……!」
今回はそれを意識的に行う。雑念を捨て、ただひたすらに速度を求める。
突然超速移動をしてしまった時は混乱の極みに合ったが、思い返してみるとあれは一種の全能感を覚えるほどに素晴らしい体験だった。自分自身が風になったかのような、得も言われぬ解放感。さながら雲間を走り抜ける稲妻が如く、障害物を避けながらも凄まじい速度で駆け抜けた快感。今回能力を制御出来るように特訓するのも、半分くらいはあの感覚をもう一度味わいたいという理由があった。
故に光斗はあの時の感覚を思い起こし全身に行き渡らせ、速く走るという一念を以て大地を蹴った。
「――いってえええぇぇぇっ!?」
そして次の瞬間、銅鑼でも叩いたような響く音と共に鼻っ面に激痛が走る。痛みに鼻を押さえ悶絶して転げ回ってしまうが、とある事実を悟り痛みが一気に消し飛んだ。
先ほどまで壁を背にしていたはずだというのに、目の前にトタンの壁があるのだ。それも鉄板にくっきり光斗の顔面の痕が残っている、実に愉快な状態の壁が。
これぞ埒外の速度で激突した証明。反対側の壁から壁までは五十メートル以上あり、例え短距離走のオリンピック選手であろうと瞬きの刹那に到達する事は不可能だ。まして鉄板に不細工な衝突の表情が刻まれる事などありえない。つまりこれが意味する所は――
「で、出来た! 本当に俺に、こんな力が……!」
紛れもなく超常の力が自分に宿っているという事実。狂気の妄想ではなく確固たる現実だと身に染みて理解出来た光斗は、興奮のあまり鼻の痛みも忘れて飛び上がった。
とはいえ鉄板に痕が残る程の速度で衝突したので、鼻が折れていてもおかしくない。恐る恐る触ってみたものの、不思議と腫れてもいなければ鼻血すらも出ていなかった。もしかすると超常の力だけではなく、頑健な肉体をも得ているのかもしれない。
「よし、もっと回数を重ねてこの速さに慣れるぞ!」
身体が頑健と化したのなら、多少の事故を恐れる必要は無い。特訓のため失敗を恐れず、シャトルランが如く行っては戻りをひたすらに繰り返した。最初は壁に不気味な人型を量産する結果となったが、回数を重ねる事に己の速さを制御できるようになっていた。
特訓を続ける中で、自然と己の能力に対する理解も深まっていく。恐らく光斗の能力は超スピード、あるいは高速移動の類の能力だ。そしてあの全てが静止した世界も光斗が生み出した物であり、力の一部なのだ。
恐らくあの時世界は実際に停止していたのではなく、光斗だけが超高速で動いてるからこそ止まって見えたのだ。高速走行はそれを認識し制御できる動体視力や反射神経が無ければ成り立たない。力に目覚めたばかりの光斗は双方が完全には同期しておらず、己の動きを制御出来なかったり、世界だけが止まって感じられたのだろう。
「――凄い! この感覚、まるで風になったみたいだ!」
その証拠に訓練を重ねて完璧に肉体と脳を同期させた結果、高速で自由に走る事が可能となった。無様に壁に衝突する事も無く、廃工場内を縦横無尽に駆け回れるほどに。落ちていた金属のボルトを投げ飛ばしそれを自分でキャッチするという神業を交えたり、壁を走るという物理法則に喧嘩を売る真似をしたり、能力を完全に制御する事が出来るようになった光斗は、どこまでも純粋に興奮で舞い上がっていた。
「後は、どこまで速く走れるか……試してみたい!」
昂る気持ちを抑えられなくなり、遂に狭い廃工場を飛び出し街という名の広大なグラウンドに繰り出す。
そこは車が行き交い、人々が闊歩する騒がしい夜の世界。しかし今の光斗には全ての動きが凍り付いて見えている。厳密には高速走行を制御出来るほどに意識が加速しているため止まって見えるだけであり、僅かずつではあるが動いている。
とはいえ定規で計るなり、加速された光斗の時間で何十分も待たなければ分からない緩慢さだ。ほぼ停止しているのと同義である。
「車も簡単に追い抜かせるっ! 電車も、新幹線も……!」
強い高揚を覚えながら、静寂に満ちた世界を己の脚で切り裂いていく。ほぼ静止状態の車も、亀の歩みのように遅い電車や新幹線も、全てを追い越し置き去りにして。
やがて己の最高速度を確かめたくなり、ただひたすらに真っすぐ駆ける。全身に襲い来る風圧が髪を激しくなびかせ、大気との摩擦で肌がひりひりと熱を帯びる中、徐々に周囲の景色がぼやけて引き伸ばされ――
「うわっ!? 何だこれ!?」
突如として光斗の全身を包むように、透明な被膜にも似た謎の物体が現れた。水晶にも似た結晶体の形をしており、出現と同時に全身を襲っていた風圧がそよ風の如き弱さに変貌する。摩擦熱もほぼ感じなくなり、更なる速度に挑戦できる余裕が生まれた。
「そうか。自分の速さで怪我しないように、身体を守る保護膜みたいなものなんだな。よし、そうと決まれば……」
超高速走行モードとでも言うべき状態に入った光斗は、星宮市の中心にある天野駅へと足を向けた。速攻でその場に辿り着き腕時計で時間を確認すると、直後に東の方向へ全身全霊で駆け抜ける。
天野駅から東に約四十キロメートル向かうと海沿いに出るのだ。本来なら脚で向かうのは辟易する距離だが、あまりにも速すぎる今の光斗にはちょうど良い計測距離であった。
「――着いたっ! 時間は、えーっと……一分、五十秒くらいか?」
約二分後、恐ろしいほどに暗い夜の浜辺に辿り着いた。普段なら近付こうとも思わないくらいに不気味な雰囲気だが、興奮して舞い上がっているため全く気にならない。
それよりも重要なのは走行速度。頭の中で計算を終えた光斗は、自分の足が叩きだした人智を超えた速度に開いた口が塞がらなくなった。
「いや、音速出てるじゃん……とんでもないな、俺の足……」
その速度は音の速度を僅かに上回る、時速千三百キロメートルほど。とどのつまりマッハ一を超えている。当然ながら地球上のどんな生物にも決して成し得ない速度だ。何より驚きなのは、音速を超えておきながら自分自身にも周囲にも被害が無かった事である。
本来ならマッハ一に到達すれば、音の壁を突き破った事で衝撃波が発生する。周辺の建造物のガラスを粉砕し、人々の鼓膜を破り、そして生身で衝撃波を生み出した自分自身は身体が裂けるような重傷を負う。加えて強すぎる風圧が皮膚や筋肉を削ぎ飛ばし、強烈すぎる摩擦熱と断熱圧縮が身体を焼く事だろう。手の込んだ自殺としか言いようがない。
しかし光斗自身にも、駆け抜けてきた道にも全く被害は見られない。これは恐らく、身体を包むように展開されている水晶膜のおかげなのだろう。どうやら自分自身を守るだけでなく、周囲に被害が出ないようにする力も持っているらしい。
「まさか本当に特殊能力的なものに目覚めるなんてびっくりだぜ。やっぱりあの流れ星のせいだよな……?」
少しばかり疲れたので浜辺に腰を下ろすと、水晶膜が消え去り周囲の音が戻ってきた。
寄せては返すさざ波の心地良い音が耳に届き、火照った身体を冷ます冷たい夜風が肌を撫でる。少々キツめの潮の香りも手伝い、興奮に舞い上がっていた光斗はようやく頭が冷えてきた。今更だが上半身裸で街中を走り回っていた事実に思い至り、無性に恥ずかしくなってきてしまう。
「……この力があれば俺は、何でもできる」
しかし込み上げた羞恥を、能力がもたらす全能感が塗り潰す。
大金しかり、権力しかり、人間身に余る力を授かると大抵碌な事をしない。多くの場合は己が欲望を満たすために力を使うものだ。ましてや人智を超えた超常の力という、本来決して手に入らない力ならなおさらの事。自分が特別な存在だと思い上がり、より増長して悪事を成す抵抗も無くなってしまう事だろう。
光斗もこの力を使えば、きっと欲望の限りを尽くせる。音速で走れるのだから誰の目にも止まらず、集中すれば時間が止まった世界の中で自分だけは普通に動く事が出来る。強盗、殺人、強姦――ありとあらゆる悪事が容易に行える。
母子家庭の光斗の家はどちらかと言えば貧困家庭だし、お金に困っているのは確かだ。そして光斗は高校二年生であり、男としての欲求を持て余す事も多々ある。それらを簡単に解決できる力が今の自分に宿っているというのは、普通に考えて人生で一番とも言えるほどに抗い難い誘惑に違いない。
「決めたぞ。俺は、この力を使って――ヒーローになる」
だがくだらない誘惑など全て跳ね除け、決意と覚悟を以てそう宣言した。己に、そして夜空に輝く美しい満月と星々に。
浅ましい欲望に支配されなかった理由は至極単純な事。今は亡き尊敬する父に、その高潔な精神に憧れているからだ。特別な力を欲望のために使うなど言語道断、理想から一番遠い姿である。
「困ってる人を救うために、この力を使う。もう二度と、父さんと同じ悲劇は繰り返さないように」
どこか頼りなくて弱々しい、けれど底抜けに誠実で清廉だった父。困っている人を放っておけず、最後までその優しさを貫いて無くなった男。
人は愚かと断じるかもしれない。家族を残して死んでしまうなど、馬鹿のやる事だと笑うかもしれない。事実、葬式で親族が似た言葉を零していたのを耳にした事がある。実際光斗も、父の死を受け入れられなかった頃は同じ事を考えていた。
だが今は違う。時が経ち、死を受け入れた頃には気付いていた。確かに愚かだったかもしれないが、あれこそ正真正銘の善人の姿。損得勘定なく人を助ける生き様は、正にヒーローのようだった。光斗はそんな父に、創作物のヒーローとは比較にならないほど、どうしようもなく憧れてしまったのだ。
故に降って湧いた超常の力を何に使うかと問われれば、父のようなヒーローを目指す事以外に答えは無かった。この力があればより多くの人間を、自他の犠牲なく救う事が出来るのだから。
「そして俺が誰からも称えられる存在になった、その時は……」
加えてもう一つ、ヒーローを目指す理由がある。
街や人々に貢献し、善行を積み重ねる事が出来れば、天が光斗に味方してくれるかもしれないからだ。久遠への謝罪の機会や勇気を与えてくれたり、もしかしたら許しを得られるかもしれない。
神頼みにも似た根拠にも確実性にも乏しい理由であったが、今の光斗はそれらに頼るのも悪くないと考えていた。超常の力を授けてくれる怪しげな流れ星が存在する以上、意外と世界は現実離れしているのだ。神の一柱や二柱存在してもおかしくはない。
「……よし! そうと決まれば、色々と力の検証だ!」
父のような素晴らしい人間になるため、そして久遠に謝罪するため。二つの意思によりヒーローになる決意を固めた光斗は、再び大地を蹴って夜の街へ高速で走り出した。この力の限界や応用力を知り、人を助けるための力とするために。
とはいえ所詮はヒーロー志望の見習いの身。連絡もなく深夜まで帰宅しなかったため朱理にはしこたま説教され、心配して泣いていた愛理にもかつてないほど怒られてしまった。やはり一朝一夕で誰も傷つけない完璧なヒーローになる事はできないらしい。




