日常と異変
「――どあああぁああぁあぁあぁっ!?」
目も眩む黄金色の光に網膜を焼かれ、光斗は悲鳴と共に跳ね起きた。
だが気が付けばそこは自宅、自室のベッドの上であった。周囲の光景も人気のない夕暮れの公園ではなく、普段と何ら変わりない自室の光景。漫画が溢れる本棚に若干散らかった学習机、一般的な男子高校生らしい部屋だ。
ちらつく眩しい光に視線を向ければ、カーテンの隙間から眩い日差しが部屋の中に差し込んでいた。日の光はベッドの上も照らしており、枕元にも光の線を描いている。仰向けで寝ていればちょうど瞼の部分に光が降りるであろう位置に。
顔面を撫で回してみても、高速で衝突した隕石に粉砕された形跡はどこにもない。つまりあの出来事は現実のものではなく――
「……夢かぁ! あー、良かった。うっかりとんでもない死に方をするところだったぜ」
眠っている時に見ていた、馬鹿げた妄想に近い夢。それを理解し、光斗は胸を撫で下ろした。
「とんでもない死に方? あー、分かった。お兄ちゃんサメに食べられる夢見たんだー」
「ああ、そうそう。陸海空に宇宙、果ては時間と空間に次元まで超越したサメが飛んで来て――って何でいるんだよ、愛理?」
子供特有の高く愛らしい声がベッドの中から聞こえて来たので、シーツを捲って中を覗き込む。そこにはコアラの如く光斗の下半身にしがみつく、幼い少女の姿があった。
彼女の名は結城愛理。犬猫の毛並みにも似たふわふわの茶髪と、エメラルド色の丸く可愛らしい瞳が特徴の小学五年生だ。光斗の年の離れた妹でもある。尤も愛らしい瞳は小馬鹿にするように細められ、桜色の唇も悪戯な笑みに歪んでいたが。
「お兄ちゃん起きるの遅かったから起こしてあげよっかなーって。可愛い妹によるモーニングコールとか最高でしょ?」
にんまりと若干嫌らしく笑いながら、身をくねらせつつ腰元に頬擦りしてくる愛理。
年頃の男なら女の子に抱き着かれれば動揺しそうなものだが、特に不埒な感情は覚えなかった。愛理は確かに可愛らしいものの、体付きは小学五年生らしい小柄で平坦な身体付きだ。妹である事を差し引いても、特殊な趣味でも無ければ感じ入るものは何も無い。
「勝手に入って来るなって言っただろ? お前いつも碌な事しないんだからさ」
「ひどーい。可愛い妹がお兄ちゃんのために掃除とかしてあげてるだけなのに」
「嘘つけ! 俺のちょっとエッチな漫画を机に並べたりしてるだろ!」
「妹ものが無かった罰だよ! 妹がいるのにどうして持ってないの!?」
「持ってた方がマズいだろ! あーもうっ、着替えるからさっさと出てけ!」
「キャンキャンっ!」
謎の理論で逆ギレする愛理をベッドから引きずり出すと、途端に頬を綻ばせ子犬染みた声を上げる。構って貰えて嬉しいのだろう。愛理は兄である光斗が大好きなのだ。若干行き過ぎなくらいに。
尤もその辺りは光斗にも責任がある事なので、あまり強く拒否できないのが困りもの。とりあえず甘えてくるデカい子犬を部屋の外に気持ち優しく放り出すのだった。
「全く、本当に愛理は困った奴だな……」
目覚めて早々の濃厚なやり取りに、寝起きにも拘わらず軽い疲労を覚えてしまう。大体おはようからおやすみまであんな感じのノリなので、うるさい事この上ない。とはいえ昔の愛理に比べれば実に健康的なので、諫める事は躊躇われた。
「――って、うわ!? もうこんな時間かよ!?」
思わず昔の愛理に想いを馳せようとした所で、時計を目にして驚愕の事実に気が付く。すでに時刻は午前八時を回っている。光斗が通う南十字高校までは徒歩二十分の距離なので、このままだと遅刻してしまう。
故に光斗は慌てて着替えを行い部屋を出ると、半ば転げ落ちるように階段を降りた。
「おはよう、母さん! 朝ごはんは!?」
「あら、おはよう光斗。出してるけどもう冷めちゃってるわよ?」
リビングに顔を出した光斗を台所から迎えたのは、素朴で儚い印象漂う若々しい女性。愛理とは正反対の雰囲気だが、髪や瞳の色は同じ。それもそのはず、彼女は愛理の母親である結城朱理だ。
一方ダイニングのテーブルでは余裕綽々に朝食を嗜む愛理の姿もある。小学校が自宅から徒歩五分圏内にあるため、光斗と違ってゆっくり過ごす事が出来るのだ。実に腹立たしい事である。
「時間無いから冷めてる方が有難い! いただきます!」
「あらあら、お行儀悪いわねぇ?」
時間がかなり差し迫っているため、愛理の隣に座り朝食を流し込むように食らっていく。朝食を抜いて出ればまだ間に合う時間だが、今朝は異常なまでの空腹に襲われていたのだ。朝食を取らないという選択肢は存在しなかった。
「時間無いなら私が代わりにお兄ちゃんの目玉焼き食べてあげるね! もーらいっ!」
「ありがとう、愛理! お礼にお前の分のウィンナー食べてやるよ!」
「ああーっ! 私のウィンナーさんがあぁぁぁっ!?」
「ふふっ。朝から元気ね、あなたたち」
食事中にもしつこく絡んでくる妹。息子と娘の触れ合いに目を細める母。普段と何ら変わりない日常の一場面。夢で見た非日常とは一番縁遠い、尊く眩しい日々であった。
「……?」
しかし食事を進める中、不意に光斗はとある事に思い至る。
流れ星が落ちてくるのは夢だった。それは疑いようの無い出来事だ。では一体どこからが夢だったのか。そもそもの話、昨日光斗は何時に帰宅して何をして過ごしたのか。不思議な事にその辺りの記憶が曖昧であり、どうにも思い出せそうになかった。代り映えのしない日々ならともかく、昨日は四月十日。高校二年生に進級した始業式の日だったというのに。
自分の昨日の行動を振り返るように、リビングの壁掛け時計に視線を向けた所――
「――あっ!? マズい、早く行かないと遅刻する!」
時刻は八時十分を回っていた。最早徒歩では確実に遅刻だ。
光斗は慌てて白米を喉の奥に掻き込み、味噌汁で流し込み強引に朝食を終えた。
「うぇーい。可愛い妹は学校が近いから、もうちょっとゆっくりしてても大丈夫ー」
「クソッ、腹立つなコイツ……!」
「キャハーッ!」
愛理の余裕の態度にイラっときた光斗は、心持ち乱暴にその頭をぐしゃぐしゃと撫で回す。しかし愛理はむしろ上機嫌に笑い、全く応えていなかった。髪が乱れてしまう事を差し引いても、兄に頭を撫でて貰えた事の方が嬉しいらしい。
「ごちそうさまでしたっ!」
「お粗末様でした。後片付けは良いから、歯磨きとお父さんに挨拶を忘れないでね?」
「うん、分かってるよ! まずは歯を磨いてくる!」
ほぼ遅刻確定の状況だが、決して怠ってはいけない朝の務めが幾つか存在する。具体的には歯磨きだ。虫歯の痛みはかなり辛く、治療も実に恐ろしいからだ。なので席を立つと、代わりに食器を片付ける朱理を尻目に洗面所へ向かった。
時間が無いので若干乱暴に歯磨き粉をぶち撒け、シャカシャカと高速で磨く。遅刻しそうでも虫歯は嫌なので一本一本丁寧に磨き、最後にうがいをしてから洗面所を出た。
「ちょっと光斗、歯磨きはどうしたの?」
「えっ、もう終わったよ?」
「嘘おっしゃい。たった今リビングを出て行ったばっかりじゃない」
「えっ……?」
リビングに戻った所、朱理から不思議な言葉をかけられ耳を疑った。
光斗は確かに洗面所で歯磨きをした。過去に虫歯で酷く苦しんだ記憶があるので、遅刻が迫っていても一本一本丁寧に。最低でも五分はかけて磨いたはずだ。しかし朱理の言葉は、まるで洗面所に足を踏み入れ戻って来ただけと指摘しているかのようだった。
「全くもう、虫歯になってもしらないわよ? また歯医者さんでガリガリ削って貰う事になるんだからね?」
「いや、俺は確かに歯磨きをして――あ、あれぇ?」
反論を試みるも彼女が未だ光斗の朝食の片付けをしている事に気が付き、更に困惑が深まってしまう。
洗面所に向かう時点で朱理が食器を片付け始めたのは、視界の隅で捉えていた。にも拘らず五分間の歯磨きを終えて戻ってみれば、まだ片付けている最中なのは明らかに異常。食器と言ってもおわんや茶わんを含めて四、五皿くらいであり、二往復もすれば片付けられる量だ。分単位で時間がかかるとは到底思えない。
証拠に時計に視線を向ければ、リビングを出た時から一分も進んでいなかった。つまり光斗の方が間違っているのだ。恐らく頭が寝惚けていて、歯ブラシを咥えただけで長い歯磨きをしたと勘違いしてしまったのだろう。
「ほら、光斗。お父さんに挨拶してきなさい」
「あ、うん。そうだな、うん……」
疑問が氷解してもどこか納得いかない気持ちを抱えつつ、最も重要な朝の務めを行うためリビングの片隅へと向かった。
そこに鎮座しているのは、季節の花や果物が供えられたシンプルな仏壇。豪奢ではなく控えめで小さいが、いつも綺麗に掃除されて新品のように輝いている。仏壇の中心に飾られているのは、細身でどこか頼りなく見える男性の遺影――光斗の父の遺影だ。
結城健太郎、享年四十歳。見た目こそ細く頼りないが、実際には誠実さと高潔さを兼ね備え、家族を愛する立派な男性であった。中でも特筆すべきはその精神性。困っている人がいたら助けるのは当たり前――そんな座右の銘を持つ人だった。皮肉にも口だけの男ではなかった事が、彼の死因となってしまったのだが。
「……おはよう、父さん」
遺影の前に跪き、自然と穏やかに話しかける。子供の頃は遺影を見る度に涙が溢れて止まらなくなっていたが、今ではもう折り合いをつける事が出来ていた。それでも消えない寂しさが胸を刺すのは仕方のない事だが。
「今日も学校行ってくるよ。遅刻確定みたいな時間だけど、今日はたまたまだからね」
とりとめのない事を語り、手を合わせて祈る。故人を偲ぶ毎朝のこのルーチンだけは、決して欠かす事は無かった。それは愛理ですら同じであり、いかに彼が立派な人物で愛されていたかが分かる。そもそも愛理と朱理は健太郎に救われたと言っても過言ではない間柄なのだ。
朱理たちは共に再婚であり、お互いに離婚歴がある。健太郎は妻に一種の結婚詐欺を働かれた事による離婚だが、朱理は夫によるDVに耐えかねた離婚であった。彼女の元夫は相当悪質な男だったらしく、幼い愛理にすらも暴力を振るっていたのだ。
朱理たちは子供には両親が必要だという事もあり再婚を考え、そして出会い、結ばれた。初めの頃はお互いギクシャクしていたし、愛理に至っては虐待の影響で常に怯えすぐに謝りながら泣きじゃくるという哀れな様子であった。
しかしそこは聖人君子とも言える健太郎。心から朱理と結ばれ愛し合い、更に愛理の事も本当の娘として愛した。光斗も父に倣い、愛理の事をひたすらに愛して甘やかし本物の妹として、家族として接した。
その結果、光斗たちは真に家族と呼べる間柄となった。おかげで愛理も明るく元気はつらつな自分を取り戻したものの、優しく接し過ぎた弊害なのか兄妹間から逸脱気味の好意を向けてくるのだ。血は繋がって無いから大丈夫、とは愛理の言葉である。
「あっ、そうだ。ちゃんと久遠に謝れるよう、できれば力を貸して欲しいな? いや、自分の力でやりなさいって言いそうだね。じゃあせめて、しっかり謝れるよう見守っててくれると嬉しいな」
尤も、幸せな日々がいつまでも続くとは行かなかった。遺影に寂しく話しかけている通り、健太郎は随分前に亡くなってしまったのだ。それもやっと真の家族となれたばかりの時に、実に彼らしい理由で。
「――よし! それじゃあ行ってきます、母さん!」
「はいはい、行ってらっしゃい。車に気を付けてね?」
「いってらっしゃい、お兄ちゃーん!」
亡き父への挨拶を終えた光斗は、弾かれたように立ち上がりカバンを引っ掴んで走り出した。時刻はすでに八時二十分近く。ハンカチやら何やらを準備している暇もない。母と妹の声を背にリビングを横切り、手早く靴を履き家を出た。
最早全力疾走を続けても間に合うかどうか微妙なラインだが、諦めずにダッシュで急ぐ。しかしやはり時間は厳しく残酷だ。時折腕時計に目を落としながら全力で走るも、刻一刻とデッドラインが迫ってくる。
「ヤバイ! このままじゃ一回横断歩道で止まったら遅刻確定だ!」
住宅街を抜け、もうすぐ交通量の多い市街地に差し掛かるという所。息を乱して懸命にひた走ってはいるが、赤信号になれば止まらねばならない。
仮に全ての信号で止まらず駆け抜けるが出来たとしても、信号の存在しない横断歩道が鬼門である。今現在は通勤ラッシュの時間帯であるため交通量も多く、運転免許を持っていても横断歩道が歩行者優先というルールを知らない者も多い。まず間違いなくそこで足を止めるのは確定であった。二年に進級した翌日から遅刻など冗談ではない。
「くそっ、もっと早く走れればっ!」
もっと早く走れれば、風のような速さで駆け抜ける事が出来れば、信号に引っかかろうと時間に間に合う事が出来るだろう。
とはいえ人間は常軌を逸した埒外の速度で走る事など出来ない。地上最速の動物であるチーターですら時速百二十キロ程度が関の山であり、速度に反してスタミナが欠けているため速度を長く維持できない。故にそんな願いは無いものねだり――そのはず、だった。
「――ん? あれ?」
ふと気が付くと、光斗は校門の前に辿り着いていた。
腕時計を見下ろしてみれば、時刻はまだ予鈴五分前。登校する生徒たちの姿がちらほらと見受けられており、遅刻を免れる事が出来たのは明白だった。
しかし光斗の胸に安堵や喜びは欠片も無い。何故なら物理的に不可能な事象が発生したからだ。
「ど、どういう事だ、これ? 何でたった三分で着いてるんだ?」
最後に時計を確認した時の時刻は八時二十二分。その時点で高校への道程は二割ほどしか踏破できていなかった。にも拘わらずたった一分で校門前に到着しており、しかも道中の記憶が一切存在しないのだ。まるで瞬間移動でもしたかのように。
記憶は飛んでいないが、時間と行動の不一致は朝の歯磨きの件も同様だ。あれはやはり頭がボケていたという話ではなかったのだろう。
とはいえ考えてもさっぱり事情が呑み込めず、校門の前でひたすら物思いに耽っていたせいで結局遅刻してしまうのだった。




