勝利の余波
「ルーカス様が――倒れた!?」
「ば、馬鹿な……! あのルーカス将軍が……!」
戦場に走った衝撃は、矢よりも鋭く、炎よりも速かった。
彼らが信じて疑わなかった絶対の存在――戦鬼ルーカス。
幾多の戦場で帝国を勝利に導いた将軍が、辺境の地で膝をつき、そして地に伏した。
その事実は、帝国軍の兵たちの心を根底から揺さぶった。
「無敵」だと信じていたものが砕け散った瞬間、兵の胸に満ちたのは誇りでも怒りでもなく、圧倒的な恐怖だった。
黒い鎧に身を固めた兵士たちは互いに顔を見合わせ、声なき声を上げ、後ずさりを始める。
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「退くな! まだ数では我らが勝っている!」
血に濡れた顔で、ルーカスの側にいた副将が必死に声を張り上げた。
「怯むな! 勝利はまだ我らのものだ! 進め、進めえぇっ!」
しかし、その言葉は虚ろに響くだけだった。
誰もが知っていた。
どれほど兵が残っていようと、戦鬼が倒れた事実は消えない。
「まだ勝てる」と叫ぶ声は、むしろ敗北を認めているように響いた。
前線の兵士は剣を握る手を震わせ、後列の兵士は盾を重く感じ、
仲間と視線を交わすたびに「退け」という思いが広がっていく。
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「押せえええっ!」
「砦を守れえぇ!」
辺境軍の怒号が、嵐のように戦場を覆った。
今まで必死にしがみついていた戦線が、逆に大きく押し返す力を得る。
傷だらけの兵たちが、倒れた仲間の剣を拾い上げ、叫びながら突撃する。
民兵も、恐怖に震えていたはずの農夫も、大槌や鎌を振り回し、牙を剥いた。
その全ての心を繋ぎとめていたのは――
「負けるな! 我らには閣下がいる!」
「エレナ様が見ておられるぞ!」
兵の叫びに、胸が震えた。
私などが何をしたというのだろう。
それでも、彼らは確かに、私の名を誇りに戦っていた。
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「くっ…撤退だ! 退けぇぇっ!」
帝国副将のかすれた声が、ついに戦場を支配した。
「退け! 退けえええ!」
その声は命令というよりも、叫びに近かった。
黒い波のように押し寄せていた帝国軍は、今度は逆に津波のように崩れ去っていく。
誰もが生き延びることだけを望み、背を向けて駆け出す。
そこに辺境軍の雄叫びが重なった。
「追え! 敵を押し返せ!」
「今こそ反撃の時だ!」
疲労で足が重くとも、血で剣が滑ろうとも、辺境の兵は叫び、進んだ。
あれほど恐れていた黒鎧の兵が、今はただ逃げる背にしか見えなかった。
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「エレナ!」
戦場の喧噪の中。
どんな音よりも強く、まっすぐに届く声があった。
ダリウス様。
その姿は血に濡れ、肩で息をしていた。
額から流れる血が頬を伝い、甲冑は切り裂かれ、全身が戦いの証で覆われていた。
けれど、その灰色の瞳は曇らず、まっすぐに私を見上げていた。
「君の声が……皆をつないだ」
その言葉に胸が詰まった。
「いいえ……皆の想いが、勝利に繋がったのです」
涙が滲む。
けれど、それは悲しみではない。
確かな誇りと、誰もが生き延びたという歓喜の涙だった。
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夕陽が西の山の端に沈み始める頃、帝国軍はついに完全な撤退を始めた。
黒い波が押し寄せることは二度となく、遠ざかっていく背を追うように辺境軍の歓声が砦を揺らした。
「勝ったぞ!」
「帝国軍を退けた!」
砦の中が歓喜の声で満たされる。
泣き笑いしながら抱き合う兵。
仲間の名を呼び、無事を確かめ合う民。
戦死者の遺体に縋り、なおも涙を流しながら誇り高く名を叫ぶ者。
そのどれもが、命を懸けて掴み取った勝利の証だった。
そしてその中心には、灰色のマントを纏った男と、その傍らに立つ一人の女がいた。
――私と、ダリウス様。
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こうして数千を超えるガルディア帝国軍は、わずかな兵と民しか持たぬヴォルト辺境伯領に撃退された。
王都からの援軍もなく。
ただ、この地に生きる人々が互いを信じ、支え合い、立ち上がった結果だった。
勝利の報せは瞬く間に砦中に広がり、人々は口々に語った。
「ダリウス閣下こそ、我らの盾だ!」
「エレナ様は聖女だ、あの方の声に救われた!」
ダリウス様はまず戦死者を弔う祭を営み、遺族の前に膝をつき、言葉を尽くして頭を垂れた。
その姿に兵も民も涙し、誰もが彼を心の底から慕った。
そして、私にまで向けられる感謝の言葉。
「エレナ様がいてくださったから」
「エレナ様の声に支えられた」
そう言って、年老いた農夫が涙を流し、少女が花を差し出した。
胸が熱くなり、何度も涙を堪えきれなかった。
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けれど、その夜。
勝利の歓声がまだ砦に響いている中で、ふと私は胸騒ぎに囚われた。
――聖女。
その言葉が、私を縛る。
ただ励ましの声をかけただけの私を、民は「聖女」と呼んでいた。
もしこの噂が王都に届けば――。
セシリア様は、どう思うだろう。
エドワード殿下は。
王都の人々は。
「……」
勝利の余韻に包まれながらも、私の心には小さな棘が刺さったままだった。
その棘は、やがて大きな痛みに変わるのかもしれない。
だが、この時の私はまだ知らなかった。
その予感が、すでに現実へと歩み寄りつつあることを――。
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