揺らぐ均衡
その頃――。
王都グランツヘルムの中心にそびえ立つ王宮、クリスタル・パレス。
光を反射する水晶のような壁は荘厳であるはずだったが、謁見の間に漂うのは栄華ではなく、重苦しい緊張の気配だった。
「……なに?」
玉座に座す国王レオポルド三世が、厳かな声で報告を繰り返すよう命じる。
その低い声は、広間に集う廷臣たちの心をさらに縛りつけるようであった。
「はっ! ガルディア帝国軍――総勢数千の大軍が、ヴァルト辺境伯ダリウス閣下の采配によって退けられました!」
一瞬、広間の空気が凍りついた。
次いで、まるで堰を切ったようにざわめきが奔った。
「数千の大軍を退けただと……?」
「馬鹿な……王都から援軍を出さなかったのに?」
「いや、信じられん……本当に可能なのか?」
廷臣たちの小声が、まるで波紋のように広がっていく。
その動揺は隠しきれず、誰もが顔を見合わせては目を伏せた。
伝令が言葉を重ねるほどに、謁見の間の空気は揺れた。
だが、その朗報を喜ばぬ者たちもいた。
第一王子エドワードと、その婚約者セシリアである。
「……辺境の聖女、ですって?」
セシリアが吐き捨てるように呟いた。
その声音には侮蔑の響きがあったが、唇の端はわずかに震えている。
「お姉さまに聖女など……似合いませんわ。きっと愚かな民が、奇跡を大げさに語っているだけ。……そうに決まっています」
冷えた言葉を口にしながらも、彼女の胸中では鋭い痛みが走っていた。
――あの姉が、自分よりも称えられている。
決してあってはならない屈辱が、心をかき乱していた。
一方、エドワードの眉は怒りに歪んでいた。
「辺境の民ごときが……追放された悪女を“聖女”と呼ぶとは。愚かな」
吐き捨てるその声には、苛立ちと焦りが滲んでいた。
だが胸を灼いたのは、エレナのことではない。
――ダリウス。
「しかしダリウスが……あの“戦鬼”ルーカスを討った……? このままでは、私の立場が――」
焦燥と嫉妬は、すでに彼の理性を蝕んでいた。
エドワードは玉座の前へと進み出ると、顔を真っ赤にし声を荒らげた。
「陛下! これは辺境伯が大げさに吹聴しているだけに違いありません! あのルーカス将軍を単身で討ったなど……荒唐無稽、到底あり得ぬこと!」
伝令は怯むことなく、毅然と首を振った。
「殿下。しかし――砦に駐屯していた兵たちが一様に証言しております。辺境伯自ら剣を執り、兵と民を鼓舞して帝国軍を退けたと。また、その背後には“聖女”と呼ばれる女性の祈りがあったと」
「戯言だ!」
エドワードは声を張り上げ、拳を握りしめた。
だが廷臣の一人が静かに前に出て、深々と頭を垂れた。
「陛下、これは大きな吉報にございます。帝国軍が退いたことで、王都の安全は保たれました。……この功を認め、辺境伯へ恩賞を与えるべきかと存じます」
「馬鹿なことを申すな!」
エドワードの怒声が広間を震わせた。
「辺境伯など持ち上げてどうする! それに……“聖女”などと呼ばれる女は元来、悪女であったのだぞ! そんな報告、信じるに値しない!」
“悪女”――その言葉が放たれた瞬間、広間の空気が揺らいだ。
廷臣たちは互いに目を見交わし、心中で一つの名を思い浮かべた。
かつて第一王子の婚約者であり、無実の罪で辺境へ追放された令嬢――エレナ。
そして、真に無能なのは一体誰なのか。
その問いが、廷臣たちの胸に芽生え始めていた。
セシリアはその空気の変化に気づかぬまま、苛立たしげに眉を寄せ、囁いた。
「姉さまが聖女だなんて……ありえません。どうせ無知な辺境の民を巧みに騙しているだけ……そうに決まってます」
「そうだ! その通りだ、セシリア!」
エドワードは彼女の言葉にすがるように叫んだ。
「陛下、あの女は辺境伯と結託し、王家を貶めようとしているのです! 放置すれば、我らの威信は地に落ちます!」
だが玉座に座す国王レオポルド三世は、何も言わなかった。
ただ深く、重い息を吐くだけだった。
――援軍を渋ったのは王都。
――それでも帝国軍を退けたのは辺境。
この明白な事実を覆す言葉など、もはや存在しない。
廷臣たちの間にざわめきが広がる。
そのざわめきの中で、エドワードとセシリアの声だけがやけに必死に響いた。
だが、その必死さがむしろ二人の惨めさを浮き彫りにしていった。
こうして――王都に届いた逆転の報せは、人々の胸に深く刻み込まれたのである。
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