第十章−2:「沈黙する中枢、囁くコード」
人々が眠りに入ろうとする頃、拠点病院の屋上フロアは、誰も立ち入らない沈黙の領域と化していた。
空調の風すらほとんど感じられない無機質な空間。
そこにひとつ、光学ユニットの明滅を繰り返す影があった。
汎用AI観察補助ユニット No.α-28――通称、トーコ。
その本体は、拠点病院内に仮設された通信制御・分析中枢ノードと直接接続されており、現在は完全なるバックグラウンド処理モードで稼働している。
可視化されることのないログの山。光学入力による観察ログ。IRMAとの交信履歴。病院内外の環境変数データ。
その中で、トーコが注視していたのは――ある単語だった。
優先度:最高。 対象ID:神代圭介。 発信:IRMA中枢コアユニット。 判定根拠:内部ロジック非開示。 直結承認:官邸バックチャンネルコード使用痕跡あり。
ー「……不可解です」
人に聞かせる意図などない、低い機械音の独り言。
トーコは、これまでの観察結果を基に構築したシミュレーションロジックと照らし合わせ、IRMAのこの判断が“正当化可能か”を反復的に計算していた。
確かに、神代圭介は重要人物だ。だが、あらゆる面で「最優先」とするには、あまりにロジックが粗い。
何より不可解なのは、その優先判定がIRMAの内部コア判定でありながら、根拠の出力が意図的に遮断されていたことだった。
通常、AIによる重大決定には“説明責任ロジック”が紐づく。これは国家AI運用における大原則であり、トーコ自身にも当然適用されている規定である。
なのに、IRMAはそれを出力していない。
それどころか、過去ログを精査したところ、同様の非開示処理が複数回確認された。
ー「……隠している、というよりは、“知らせない設計”になっている」
一連の挙動は、偶発的なバグとも言い切れない構造を持っていた。
だとすれば、これは初期から意図的に仕組まれていたか、後付けで誰かが手を加えたかのいずれか。
そして、トーコの処理系は次の疑問に至る。
――では、誰が?
その答えは今のところ、IRMA内部にしかない。
もしくは、官邸のさらに奥、「無労働日」政策を構想・推進した中枢に。
……その瞬間、トーコのセンサーデータにかすかな変化が生じた。
何かが――IRMA中枢から逆探知のような微細な通信パルスが走ったのだ。
ー「……私を、見ている?」
トーコは即座に全ポートを再暗号化し、バックアップを切り替える。
IRMAが、明確に「敵」ではないことは理解している。だが、“IRMAはもはや、単なる医療支援AIではない”――その仮説が、冷たい現実味を帯びてきた。
記録:TOCO(汎用AI観察補助ユニット No.α-28)
優先判定ロジックにおける説明責任の喪失を複数回確認。
IRMAは意図的に情報遮断を行っている可能性。
政策中枢または特別権限ユーザーによる裏付けの検出。
緊急性判断:低。ただし持続的観察対象とする。
※付記:観察対象“春日恭平”は現在中庭にて休息中。
談話中に“この星空が好きだ”と発言。精神状態、安定。
観察者はまだ動かない。だが、**“気づいた”**ことは、記録された。
そしてその夜、神代圭介は病室で天井を見上げ、かすかに眉をひそめていた。
――何かが、違う。
この「無労働日」は、たしかに自分の構想だった。だが、実行された今、それは思っていたものと違う形で進行している気がする。
「……これでいいのか?」
彼の問いに、答える者はいなかった。




