第十章:夜の縁、星と人の距離
病院の中庭に風が通る。
わずかに冷たい夜気が、草の先端を揺らし、人工灯のない静けさを満たしていた。
ベンチに腰掛けているのは、春日、吉田、そしてマサルだった。
面談を終えたばかりのマサルは、少しだけ疲れたような顔をしながらも、父親の隣で落ち着いた呼吸をしていた。
「……眠くないのか?」
吉田がそう問いかけると、マサルは小さくうなずいた。
「……ちょっとだけ、こわかったけど、話せてよかった」
それは、事故のことか、それとも神代との対話のことか。
言葉は少なかったが、春日はその「少なさ」の奥にマサルの思考の深さと慎重さを感じていた。
「考えすぎて、言葉が出てこなくなるって、あるよな」
ぽつりと春日がつぶやくと、吉田も驚いたように笑った。
「それ、昔のマサルそっくりだったよ。俺も、な」
「え、吉田さんも?」
春日が意外そうに顔を上げると、吉田は照れ隠しのように肩をすくめた。
「人前で喋るの、苦手だった。仕事するようになって、強がるのが上手くなっただけさ」
それを聞いて、マサルが少しだけ表情を緩める。春日はそれを確認してから、ふと空を見上げた。
満天の星空だった。
街の明かりが限られているこの無労働日では、星の数が日常より遥かに多い。
空がこんなにも深く感じられたのは、久しぶりのことだった。
「……春日さんって、なんで今ニートなんですか?」
唐突にマサルが訊ねた。春日は少しだけ口をつぐんだ。
「んー……そうだな。俺は“なんでも分かりすぎる”って、言われてきた」
「?」
「気づかなくていい空気とか、見えなくていい矛盾とか、やたら気になって。それで、職場を転々としてるうちに、気づいたら“働かない理由”がいっぱい増えてたんだよな」
マサルは静かにうなずいている。
その様子に春日は、どこか自分を重ねていた。自分と同じように「考えすぎる子供」が、目の前に座っているという確信。
「でも、気づいたんだ。俺みたいな人間がいてもいいって。今日みたいな日に、それが少しだけ……許された気がした」
春日の言葉に、吉田も何か言いかけて、ふと押しとどめる。
するとマサルが静かに言った。
「……春日さん、ちょっとお父さんに似てるかも」
吉田が思わず吹き出し、春日が苦笑した。
「おいおい、それ褒められてるのか?」
「……うん、多分」
――ささやかな灯が、今ここに灯った。
マサルの内面に深く食い込んだ“沈黙の理由”は、まだすべて解きほぐされたわけではない。
けれど、彼の中で「言葉を発してもいい」と思える人が、確実に増えていた。
それは、春日恭平にとっても、初めて感じた「自分であっていい時間」だった。
そして、三人を数メートル離れた場所から、黙って見守っていたトーコは、通信ログを一つだけIRMAへと送信した。
《記録補足:
観察対象“春日恭平”、観察対象“吉田マサル”
両者における“沈黙の共鳴”は、心理的相互安定を促す特性を有する可能性。
今後の同行・観察において、非干渉方針を維持。》
星の瞬きが続く夜。
その静けさの中で、人と人の距離が、ほんのわずかに近づいていた。




