第九章−9:「推進者の苦悩」
神代圭介は、ベッドの上でゆっくりと呼吸を整えていた。
意識が戻ってから、時間にすればそれほど経っていないはずだが、彼の中ではもっと長い時間が過ぎたように感じていた。窓の外に広がる夜の静けさは、かえって彼の心を騒がせる。
——試験的実施、限定地域、徹底した休労。
自分が推し進めた政策だった。緻密な検討、理詰めの準備、そして発令に至るまでの根回し。どれも精緻にこなしてきたという自負はある。だが。
(……これが本当に、正しい選択だったのだろうか)
そんな疑問が、今もふと脳裏をよぎる。制度的な瑕疵や、現場で起こりうる逸脱は想定済みだったはずだ。けれど、自分自身が当事者として事故に遭い、病床に伏したことで、「想定外」によって左右される人々の顔が、否応なく浮かび上がってくる。
そのひとりが、間もなくこの病室に現れる。
——マサル。自分が事故に遭った瞬間に接触した少年。
名前を知るまでは、ただの「関係者」としか意識していなかった。だが、その背後に父親がいて、巡り巡ってこの自分に会いに来ることになるとは。
(それも、何かの因果かもしれんな……)
ノックの音が、彼の思考を中断した。
「神代さん、面談の時間です」
大町の声が、扉の向こうから優しく響いた。
「どうぞ」
声はまだ少し掠れていたが、神代ははっきりと返した。
病室の扉が開き、久我、大町、そしてマサルと吉田が入ってくる。後方には無言でトーコも同行していた。神代の視線がゆっくりとマサルへと向けられる。
——まだ若い。思っていたよりもずっと幼い。
記憶の断片に残る、事故直前の顔。それと同じ少年が、今こうして目の前に立っている。顔を伏せがちだったマサルが、ふと目を上げ、神代と視線を交わす。
吉田はわずかに緊張している様子を見せながらも、息子の背にそっと手を添えていた。
「どうぞ、お話を」
久我の一言を合図に、病室には静かな時間が流れ出す。
一方——
「病室に残ってても空気が重すぎるしな。ちょっと見て回ろうぜ」
春日恭平は、病棟を出たところでカナを見やった。カナはうっすらと笑いながら頷く。
「うん。……あの空気はちょっと、接客慣れしてても堪えるわね」
2人は受付近くの待合スペースに移動した。広々としたロビーは、深夜にもかかわらず一部の照明が落とされておらず、静かな活気が感じられる。
「こういう場所でも、働く人がいる。……“無労働”って言ってもさ、結局は支えてる人間がいるってことだよな」
春日は思わず口にしていた。
「……ほんとね」
カナは頷きながら、遠くのナースステーションを眺めた。「でもこの人たちは、無理に“働いてる”わけじゃないと思うの。使命感ってやつ……それがなきゃ、こんな日にここには居られないよ」
「カナさん、やっぱ接客業って“人間”見てんだな」
「否定しない。でも……見すぎて疲れることもあるのよ?」
カナが肩をすくめ、春日が笑いながら頷く。
「じゃ、もうちょい観察させてもらおうか。俺も一応、暇つぶしのプロなんで」
その言葉にカナもふっと笑った。
——その頃、面談の空気はゆっくりと動き始めていた。
「……まずは、改めてお名前をうかがっても?」
久我の穏やかな声に、神代圭介は静かに頷いた。ベッドの上で体を少し起こし、手元のリモコンでベッドの角度を調整しながら口を開く。
「神代圭介、内閣官房 無労働日政策調整室の官僚だ。……とはいえ、今はただの入院患者だがね」
彼の口調は、どこか張り詰めながらも真摯だった。
「……吉田圭吾です。彼の……マサルの、父親です。今は離婚して、親権は向こうにありますが」
そう言って、吉田は隣に座る少年の背中に目をやった。少年──マサルは緊張した面持ちのまま、小さくうなずいた。
「……マサル……です」
それだけを口にし、視線を伏せるマサル。その姿に、神代の目元がわずかに柔らいだ。
「……まずは、お詫びをさせてくれ。私の運転する車が、君に接触してしまった……本当に、申し訳なかった」
神代は頭を下げた。その仕草に、マサルも吉田も、しばし言葉を失った。
ややあって、マサルが小さく口を開く。
「……あの時、ボク……たぶん、自転車のタイヤが、落ち葉か何かに乗って……それでバランスを崩したんです。……車にぶつかったのは……ボクの方、かも……」
吉田が驚いたように息を呑む。神代もまた、その言葉に目を細めて頷いた。
「……私も、丘を越えて下る途中、急に自転車が見えたのを覚えている。……咄嗟にブレーキを踏もうとしたが、距離が……間に合わなかった。だから、ハンドルを切った。それまでは、記憶にあるが……その後のことは、もう……」
「その後は、救急搬送まで一連の事故対応がありました」
久我が会話に入ってくる。
「神代さんは一時、意識不明で重体でしたが、幸いにも命に別状はなく……現在も安定傾向にあります」
「マサル君も、外傷はあったけど回復に向かってる。少しずつ、会話も増えてきてるし……」と大町も笑みを添える。
トーコは無言で端末に向き合っていたが、まるでタイミングを見計らったかのように口を開いた。
ー「事故時の記録、道路状況、双方の移動速度から、接触は不可避であったと推定されます。マサル君の転倒は、路面にあった濡れた落ち葉が原因の一部であり、神代氏の回避行動も物理的限界の範囲内に収まっています。責任の所在を明確に断定することは困難です」
「……あの状況では、誰がどうしていても、ぶつからなかった可能性は、かなり低かったってことか」
吉田が息を吐くように言った。
ー「その通りです」
トーコは即答する。「本件について、刑事上の責任追及は発生しない見込みです。双方の不注意と不運が重なった事象と認定される可能性が高い」
「……つまり、誰か一人を責めるような事故じゃなかった」
久我が改めてそう付け加えると、神代は目を閉じて一度息を吐いた。
「……それでも、私は責任を感じている。政策を進めた人間として、この“日”の混乱の責任も……少なからず、私のものだ」
マサルがその言葉に目を見開いた。吉田は黙ってその手を握る。
「……ボク、怒ってません。……ちょっと怖かったけど……でも、誰かが……こうして話してくれたら、それで、少し……安心します」
神代の瞳に、一瞬だけ感情が揺らいだのを久我と大町は見逃さなかった。
その空気をそっと保ちながら、病室にはしばしの静寂が訪れた。




