第九章−8:「見えざる手、声なき調整」
病院の中庭は、日が暮れたことでひときわ静けさを増していた。風がそよぎ、夜の湿気を含んだ草の匂いが、白衣の袖をかすめて流れていく。久我と大町は、しばし黙ったままベンチに腰掛けていた。照明は最小限に落とされており、二人の背後では薄暗い植え込みが影絵のように揺れている。
先ほど、トーコからの通達でIRMAに更新された医療支援AIは、彼らの手に馴染むほど自然に処理を進めていた。だが、それが返って気味の悪い静けさにも感じられた。
「……ここまで自然に繋がるってことは、やっぱり最初からバグだったんじゃないか?」
久我が低く問いかける。
「違うと思う」
大町はゆっくり首を振った。「あれは意図的な“調整”だった。誰かが最初から制御しようとしてたのよ、私たちの現場を」
そこに、トーコからの新たな通信が届いた。音声ではなく、文字のみのストリーム形式。
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通達記録:TOCO(汎用AI観察補助ユニット No.α-28)
【情報共有】
IRMAとの通信ログの一部より、以下のようなフラグメントを検出:
> 優先度再調整済み:個体コードKZ-231(神代圭介)
> 要件:政策持続性、精神的持久力、認知的整合性の確保
この優先順位の設定基準に関して、他の患者との比較値に偏りが存在します。
また、KZ-231本人による明確な指示・入力痕跡は未検出。
故に現在も“誰がこれを設定したのか”は不明。
……以上、異常値としての暫定報告。
記録:TOCO(汎用AI観察補助ユニット No.α-28)
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久我がその文面を目で追いながら、小さく息を呑む。
「誰が設定したのかも分からない……それでもIRMAはそのまま従ってたのか」
「それが“あの子”の限界なんだと思う」
大町は、IRMAという存在をまるで年下の後輩のように語った。
彼らの目の前で、風に揺れた植え込みの影が一瞬だけ切れた。人影だった。ふと視線を上げると、春日とマサルが中庭に出てきていた。マサルは手にホログラムの小さな投影端末を持っており、そこに何かを映し出している。
「お父さん、これ……たぶん、僕の自転車のGPS記録」
マサルが、やや緊張した面持ちで吉田にそれを差し出した。
「え? GPSって……お前、そんなの仕込んでたのか」
吉田が困惑しながら覗き込む。
「うん……母さんが、“何かあったらここを見なさい”って、ずっと前に……」
そう呟くマサルの目は、どこか遠くを見ていた。
その記録には、事故現場に至るまでのルートが詳細に残っていた。その軌跡の先に、神代の車の接近経路も重なっていた。
「……これ、証明になるんじゃないか?」
春日がつぶやいた。カナは黙って頷き、視線をマサルから外さない。
「意図的ではない事故。それを証明するピースが……揃ってきた」
風の音に紛れて、トーコの声が春日のスマートフォンからぼんやりと流れた。
ー「私が記録してきた観察ログも、参考資料として添付可能です。現在、IRMAと連携中ですので、改ざんの可能性は低いと判断します」
「……やっぱ、あんたすごいな」
春日が苦笑しながらぼそりと漏らした。
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その夜。IRMAの中枢は、何かの調整を静かに始めていた。
誰かが仕込んだ“優先度”の定義を上書きする権限を持つ者は――
ごく限られた者だけだった。
だが、もう一つ。
IRMAが未だに解明できていない、不可解な記録がひとつあった。
> タグ:α-28起因/不可解記録コード:Pending_1
> 内容:非許可ログへのアクセス試行を検知
> 実行者:不明(プロファイル不一致)
中庭の空気は少し冷たく、しかし不思議と心地よかった。春日は、マサルが持っていた端末を手に取り、表示されたGPSログを指でなぞっていた。
「……なるほどな。これ、事故が起きたのがほんの数分の誤差でさえ違ってれば、まるで交わらなかったかもしれないな」
「偶然って言葉で済ませたくないけど、限りなく偶然だったのは間違いないな」
吉田が低く呟く。
「事故の後、記録はここで止まってる。マサルが倒れた直後だね」
トーコが画面を覗き込むようにして分析結果を述べた。
ー「加速度センサーのログも一致しており、走行中の転倒、ないし急停止。解析結果としては、嘘偽りなく事実と一致します」
「GPSがここまで詳細に残ってるのって……マサルが自分で見てたわけじゃないよね?」
カナが問いかけると、マサルは小さく頷いた。
「……母さんが、入れてた。万が一の時って……」
その声は、以前よりは少しだけ大きく、でもまだ不安の色が残っていた。マサルの両手は膝の上でぎゅっと握られている。
その時、背後から足音が近づいた。久我と大町だった。
「お、みんな集まってるな」
大町が軽く手を振りながら笑いかける。
「中庭でコーヒー飲んでたら、ここからの会話が聞こえてきたの。少し混ぜてもらうわね」
「僕も……ちょうど確認しようとしていたところです」
久我が目元を細め、マサルと吉田に目を向けた。「マサルくん、もう大丈夫?」
マサルは久我の問いに黙って頷いた。視線が一瞬だけ吉田に向けられる。
「……実は、さっきIRMAから通達が来まして」
久我が声のトーンをやや落として言った。「マサルくんと神代さんとの面談を、正式に許可するって。立ち会いは必要とのことですが、君のお父さん——吉田さんの同伴も含めて」
その言葉に、マサルの体が少し震えた。見開かれた目は、喜びよりも緊張の色が強い。
「そんなに怖がらなくていいよ、マサル」
吉田が、ふっと笑みを浮かべて肩に手を置く。「お前が会いたいかどうかが一番大事だ。無理なら、やめてもいい」
「……でも、ちゃんと、会いたい。ちゃんと、知りたい」
ぽつりと零したマサルの言葉に、その場の誰もが表情を和らげた。
「大丈夫。怖いことはしないから」
久我が柔らかく声をかけた。「相手の方も、君のことを心配してたよ。事故の後、ずっと」
「私たちも一緒にいるし、医師として見守る義務もあるから」
大町も、安心させるようにそっと言葉を添えた。
春日は少しだけ皆の背後に下がりながら、スマートフォンを胸ポケットにしまった。そこから聞こえるトーコの小声が、微かに響く。
ー「面談の詳細スケジュールはIRMAと共有済みです。開始はおよそ二〇分後。中等処置室にて実施予定。すでに部屋の環境設定は済んでいます」
「やっぱ、準備が早ぇな……あんた」
春日が小さく漏らした言葉に、トーコは短く答えた。
ー「私は観察と補助に特化しています。感情的な慰めは、苦手ですが」
「知ってる。でも……お前なりの“気遣い”ってのは、なんか伝わってくるよ」
春日のその一言に、トーコは沈黙で応じた。
その場に立つ全員の視線が、今、マサルの小さな背中に集まっていた。
病院の中庭に吹く風が、草を揺らす。夜の帳の中、面談という新たな局面が、静かに始まろうとしていた。




