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第九章−7:「沈黙の問答と小さな突破口」


神代圭介の病室には、依然として静寂が満ちていた。

機械の規則正しいビープ音とわずかに吹き込む風の音だけが、時間の経過を知らせている。


ゆっくりと扉が開き、久我明弘と大町澪が戻ってきた。手には薄型の記録端末――筆談用に切り替えたメモアプリが開かれている。声を使わずとも言葉を交わせるための、静かな手段だった。


神代は視線だけでそれを追い、微かに頷いた。


《いま、外で少し話がありました。AIユニットTOCOの提供による、IRMAの一部処理への懸念と修正案についてです。》


久我が入力し、大町がスクリーンを向けて見せる。

神代は瞬きを一度だけし、それが「続けてくれ」の合図であると二人は読み取った。


《あなたの意思決定権限をもとに、外部支援AIとの一部リンクを許可できるよう、提案があります。》


《ただし、事故時に所持していた個人端末は破損しており、本人認証が一部機能していません。》


表示されたその言葉に、神代は少し目を伏せた。

覚えていたのだ――クラッシュした軽自動車の助手席に、ひしゃげた端末が転がっていた光景を。


「……でも、まだ手はあります」

そう口にしたのは大町だった。声こそ出したが、病室の空気に配慮して落ち着いた口調だった。


病室の隅に置かれていたのは、TOCOが使用していた政府標準型モニタ端末。普段はトーコのサポートデバイスとして使われているが、今は病室のデータ共有のために設置されたものだ。


久我がそっとその端末を神代の方へ向ける。

「少し触ってみてください。もし操作が難しければ、支援しますから」


神代は痛む体をわずかに動かし、左手でタッチパネルに触れようとする。が、手首がわずかに震え、正確な操作は難しそうだった。

その様子を見て、ふいに電子音が鳴る。


ー「入力支援モードに切り替えます。必要に応じて、TOCOが代理操作を行います。」


トーコの合成音声が、やわらかく告げる。


画面が切り替わり、TOCO本体からの遠隔入力支援が開始された。神代の視線の動きや軽微な指示から、操作意図を読み取り、それに応じて文字を表示させる形式である。


『リンクキー:医療支援AI-β22 接続許可リクエスト送信中……』


その文字列が端末に浮かび上がると、ほんの一瞬の遅延の後――IRMAとの間に「リンク承認」のメッセージが届いた。

その承認は、まさしく神代圭介本人の意思によるものと認識された。


久我と大町がそれを確認し、同時に目を見合わせる。

あらゆる制限が課されていた拠点病院のAIに、政府中枢のアクセス権限が開かれた瞬間だった。


「……これで、少しは情報の壁が崩れるかもしれません」

久我がぽつりと呟くと、神代はほとんど見えないほどの微笑を浮かべた。


端末の片隅に、TOCOからの控えめな通知が灯る。


《補足:既存の医療支援AI(β22)とのクロス参照により、IRMAの一部挙動に対し最適化アルゴリズムを再送信中。》


《トランザクション完了。IRMA、応答正常。システムは静かに自らを修復しつつある。》


たった一歩。

だがそれは、制度の隙間とAIの論理を乗り越える、確かな一歩だった。


久我と大町は、医療支援AI−β22とのリンクを介して、ようやく慣れ親しんだ操作感に触れられる環境を得た。


「これ……ずいぶんと前のバージョンと近いですね。プロトコルの切り口までそっくりだ」

久我が端末を操作しながら呟く。スクロールやタブ切り替え、患者プロファイルの照会方法までが、従来の拠点病院内で用いられていたインタフェースと極めて近い。

大町も頷いた。

「やっと手足が戻ったって感じ。……ありがとう、トーコさん」

トーコの姿は病室にはないが、通信ログを通じて確かに彼女の介入があったことは理解している。


と、そこへ端末が通知を発する。


《IRMA:面談申請結果通知》

《申請案件:患者・神代圭介/申請者:医師 久我明弘》

《対象面談者:吉田圭吾・吉田勝(推定)/承認》

《条件:医療チーム(久我・大町)同席のもと実施すること》


大町が眉を上げた。「……通ったんだ」

「付き添い条件つきってのが引っかかるけど、通っただけでも大きいな」

久我はホッと息をついた。


その背後で、別の領域ではもうひとつの静かな動きが進んでいた。


病院の中枢管理エリア――通称・コントロールルーム。

外部とのネットワーク通信を厳格に管理するため、専用の隔離空間に構築されたこのエリアへ、TOCO本体がやってきた。

現地に設置されたハードウェア端末に接続されることで、直接的な観察・解析行為の最適化が可能となる。


トーコは、あくまで自らの観察支援という機能的立場の範囲内で、病院の医療支援に寄与しうるいくつかのサブルーチンを選定し、IRMAとの通信ソケットにそれらをインストールする。


《アップロード中:TOCO-OBS_SUBMOD v.2.3》

《補足:観察補助特化モジュール。感情変化・視線・呼吸周期などから非言語的意思を察知し医療判断の補助とする》


IRMAからの受信は慎重だったが、神代圭介の承認によるリンク開通をもって、トーコのサブルーチンは正式に一部導入されることとなった。


その間――

春日、カナ、吉田、そしてマサルは、病院内の簡易見学を終え、再びマサルの病室へ戻っていた。

広大な医療現場を歩きながらも、マサルは終始静かだった。しかし、言葉こそ少ないものの、時折見せる興味や首の傾げ方には、確かに回復への兆しが伺えた。


カナが一度、春日に目配せする。春日は小さく頷き返し、廊下の先にあるあの病室を目指す。


ようやく、今日一番の意味を持つ瞬間に、彼らは再び向かっていた。

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