第九章−4:「そして、日が昇る前に」
病室に沈黙が訪れてから、しばらくの間。
神代圭介は、自らの呼吸音を聞きながら、虚空を見つめていた。
久我と大町は無理に言葉を挟まず、彼の表情の変化にただ注意を払っていた。
やがて――。
「……少し、話してもいいか?」
低く抑えた声で、神代が切り出す。
久我がうなずき、大町も静かに椅子を引いた。
「この“無労働日”が始まる少し前。自宅で仮眠は取ったが、寝つけなかった。
何せ――初の“完全休日法実施日”だ。内閣官房参与として、責任の一端は間違いなく私にあった。
日の出前の時点で、街の様子がどうなるのか……窓から、しばらく外を見ていた」
神代の視線が天井に向く。
その瞳には、過ぎた時間をなぞるような、遠くを見る色があった。
「暗かった。街灯の多くは消えていて、ほんの一部――非常用の信号機だけが光っていた。
それでも、人の気配はあったよ。まるで夜の街に生きる者たちが、
ようやく日の目を見たように、どこか開放的な空気さえあった」
「そこから……外へ?」
大町が問いかけると、神代は頷いた。
「ええ。衝動的だったが、止められなかった。
政府による制度の実地観察……と、理屈をつければ聞こえはいい。
だが私は、“現場をこの目で見たい”と思っただけだった」
「危険な行動だとは思いませんでしたか?」
久我の問いに、神代はふっと目を細める。
「もちろん思った。だが……私の仕事柄、現場を知らぬまま言葉を重ねることのほうが、遥かに危険だと感じていたんだ。
私が運転していた車は、軽自動車だった。公用車だが、私用も許可されていて、
ロゴも官庁名も入っていない、いわば“覆面車”だ」
神代は短く息を吸った。
「近隣市街地へ抜ける山道を走っていた時、カーブの先に、子どもが1人いた。
……彼が転倒したのか、バランスを崩したのか、詳しいことはわからない。
ただ、彼の影が路上に現れたときには、もう――ブレーキは、間に合わなかった」
一瞬、神代の拳がわずかに震えた。
「私は、とっさにハンドルを切った。彼を避けようと……。
そこまでは、記憶にある。だが、その先――ここに運び込まれ、目を覚ますまでの記憶は……ない」
大町がわずかに眉を寄せた。
「それが……あの事故の経緯、なんですね」
「ええ。私が、彼の名前すら知らなかったことが……
今、こうして知ることになるとは思わなかった。
彼にとっては、不運な“無労働日”になってしまった」
「でも、あなたがいなければ……」
久我が言葉を選びながら続けた。
「マサル君は、今ここにはいなかったかもしれません」
神代は言葉を返さなかった。
ただ、静かに視線を伏せ、喉の奥で息を詰めるような音だけが、わずかに聞こえた。
「……確認させてください」
久我が続ける。
「あなたが運転していたのは、無労働日であっても一定の裁量が認められている官用車両。
事故の現場は山道、目的地は市街地の視察……この行動は、違法ではないと我々は考えています」
「ありがたい。だが……それがどう評価されるかは、私の立場では決められない」
神代の声は、どこか達観していた。
「……彼の父親が、会いに来ていると聞いた。私は、直接謝罪をしたい。
医師として、あるいは法律の専門家としては、それが正しい行為かどうかは、別として――」
「お気持ちは理解します」
大町が短く答える。
「ただ、現在のルールでは、一般人との面会は制限されています。
現時点でIRMAから許可されているのは、マサル君との面会のみです」
「……なるほど」
神代は、再びベッドに身を預け、目を閉じた。
「ならば私は、待つよ。状況が整い、条件が整うその時まで」
⸻
その頃、別室のトーコはIRMAからの通達を静かに受け取っていた。
【IRMA→TOCO】
神代圭介:口頭により回想情報提供開始。
交通事故当時の記憶:断片的ながら整合性あり。
今後の対応判断:面談希望表明→評価対象保留。
内部処理中……差異検出:
神代圭介、行動ロジック → 主観的倫理に基づく自主的視察行動。
自動車使用 → 制度上問題なし。
トリアージ優先度選出理由 → 政府内行動権限者、及び交差被害可能性評価に基づく。
処理:継続中
監視対象:維持
トーコの冷たい瞳が、端末のデータに光を返していた。
だが、その裏にある神代の行動動機――それは、今も彼女の「判断基準」には収まりきらないままだった。
神代が再び静かに目を閉じる中――
それとは別の部屋では、トーコを介したやり取りが行われていた。
「……じゃあ、俺だけでもいい。頼む。せめてマサルの前で、きちんと話をしたい」
吉田圭吾の声は、懇願というよりも、必死に抑え込まれた切実さが滲んでいた。
「それは制度上、可能なはずです」
春日が小さく頷きながら言う。
「親である吉田さんだけなら、倫理的にも問題はない。あとは、病院の判断でしょ?」
トーコは通信状態を確認しながら、静かに報告を挟んだ。
ー「現在、IRMAからの面談許可は マサル氏単独に対してのみ とされています。
保護者同伴の特例についても、個別判断が必要な状況ですが――」
吉田は一歩前に出た。
「だったら俺だけで行く。春日とカナは、ここで待ってくれ」
「いいよ。私らは別に……」
カナがあっさりと了承するが、トーコはその瞬間、違和感の感知を記録していた。
【TOCO → IRMA:通信開始】
対象者:吉田圭吾
面談申請状態:父親に該当/扶養関係なし
同行者:春日恭平、柴田カナ → 面談対象外
質問:父親のみの単独面談は倫理上・精神衛生上ともに問題なしと判断可能。
だが、なぜ面談許可が否認されているのか。
【IRMA → TOCO】
状態:マサル氏の精神安定状態は維持中
面談環境調整優先順位:高
同行者存在による判断変動:影響あり
注釈:同行者が行動範囲内にいる限り、間接影響の可能性を排除できない。
→ 同行者による“静的非干渉”の証明なし
→ 面談は継続保留
トーコは沈黙しつつも、観察データの再照合を始めていた。
春日恭平――一見柔和だが内面での観察力と分析力は高い。
柴田カナ――感情起伏は強いが、状況判断力と対人配慮に長ける。
少なくとも、この2人が同行して問題を引き起こすとは考えにくい。
(もし、吉田圭吾のみの同行であれば、倫理的にも運用上も支障はないはず。
にもかかわらず、IRMAは頑なに「面談は不可」としている……)
春日が小声でつぶやいた。
「まあ……俺ら、変に顔が割れたのがいけなかったのかもな」
「そもそも、ついて行くつもりなかったんだけどね」
カナが手をひらひらさせる。
「だったら」
吉田がトーコに向かって問い直す。
「この2人が別行動ってことで、俺だけって設定にできないのか?」
トーコは一瞬だけ視線を伏せ、すぐに返答する。
ー「システム上、理論的には可能です。
ですが、IRMAは“観察対象の近接履歴”を含めて判断に使用しています。
あなたが彼らと過ごした時間、それ自体が判断要素となっている可能性が高い」
「……それってさ」
春日がぽつりと呟く。
「つまり“俺らの存在そのものがノイズ扱い”されてるってこと?」
カナは眉をひそめたまま、腕を組んだ。
「嫌な言い方だけど、まあ合ってるっちゃ合ってるんじゃない?」
一方で、トーコは再び内部交信を行っていた。
【TOCO → IRMA】
確認:春日恭平・柴田カナ、面談同席の意思なし。
見学希望により別行動予定。
吉田圭吾は単独行動として面談に進行希望。
要求:改めて面談許可の再検討を要請
【IRMA → TOCO】
通信中……
判断:保留
条件再評価中
そのとき、カナがぽつりと提案した。
「……じゃあ、私たちはマサル君のリハビリを兼ねて、見学続行ってことでいいんじゃない?
そのほうが、吉田さんも行きやすいでしょ」
春日も頷いた。
「うん、それが自然だと思う。変にプレッシャーかけたら逆にあの子のためにならない」
吉田は複雑な面持ちで頷いた。
「……すまない。ありがとう」
「気にすんなよ」
春日は笑って肩を叩いた。
そのやり取りを眺めながら、トーコは思考を続けていた。
(IRMAの判断ロジックに――ほんの微細な齟齬がある。
父親のみの面談は許可できるはずだ。
だが、現実には“不可”の判断が覆らない。
私の観測でも、春日とカナは面談への同行意思を明確に否定している。
ならば……なぜ?)
わずかな「誤差」とも言える判断のねじれ。
だが、トーコにとってはその“違和感”こそが見逃してはならない異常の兆しだった。




