第九章−2:「境界線の向こうに」
「……意識レベルがGCS12、ね。自発的な開眼もあり。けど、それだけじゃ――」
病棟の廊下を歩きながら、久我はタブレット端末を覗き込んでいた。
数分前にIRMAから届いた情報では、神代圭介の意識回復の兆候が見られるという。
それ自体は医療従事者として歓迎すべきニュースのはずだった。
だが、久我と並んで歩く大町澪の表情は重かった。
「気になるのは、あの3人よね。……というか、トーコの“対応”」
久我は肩をすくめた。「同感だ。まさか、観察用AIがここまで“遮断”するとは思わなかった。あいつら、あの少年の関係者だったんだろ?」
「ええ、マサルくんが“お父さん”と呼んだ。……それが事実なら、吉田さんには保護者に準ずる権利があるわ」
「……だが、トーコは開示を拒んでる。それどころか、その理由すら明かそうとしない」
いつも以上に無口なトーコの様子は、久我にも異質に映っていた。
単なる命令違反ではなく、“あえて背いている”ような印象すらある。
「やっぱり、あのユニットには何か……普通じゃない目的があるのかもしれない」
そんな言葉を口にしたとき、久我の端末に再び通知音が響いた。
【新規通知:IRMA/トリアージモード】
■患者:神代圭介(識別ID: RED-α12)
■ステータス更新:GCS12 → GCS13
■自発性反応 微増、バイタル安定
■補足:当該患者に関する情報は現在も外部開示制限下にあり。開示権限の再評価は保留中。
「……見てたのか」
久我は画面をスクロールしながらため息を漏らす。
「“まだ開示はしていない”って、わざわざ書くあたり、見透かされてるみたいね」
大町も苦笑いを浮かべた。
「まったくだ。こっちの不安もIRMAに筒抜けか……」
そして、彼らは神代圭介が入院している病室の前に到着した。
自動ドアが静かに開く。
病室の中は、最低限の照明と機材の音だけが満ちていた。
個室仕様のその部屋には、周囲の騒がしさは一切入り込んでこない。
中央のベッドには、神代圭介が仰向けで静かに横たわっていた。
呼吸器は外され、経口酸素のみ。モニターに映るバイタルは安定している。
久我と大町がそっと近づくと――神代は、わずかにまぶたを動かした。
だがそれは“反応”というよりも、生理的なまばたきに近い。
「……まだ、こっちの声は届いてなさそうね」
大町がそっと呟く。
「いや、でも……この前よりは、確実に“中にいる”気配がある」
久我は神代の手元に視線を移し、指先がほんのわずかに動いていることに気づいた。
「神代さん、こちらは久我です。聞こえていたら、わずかでも構いません、反応を……」
だが神代は、それ以上の反応を示さなかった。
反射の域は超えておらず、依然として**“意識が閉じた扉の向こう”にある**。
大町が、そっと神代の額に濡れたタオルを当て直す。
「……外の空気、だいぶ騒がしくなってきてるわ。ここも、いつまでも静かとは限らない。早く、目を覚まして」
その声に、神代は再びまぶたをぴくりと震わせた。
だが、それだけだった。
久我は静かにタブレットを閉じ、IRMAの提供したデータと“この目で見た現実”の乖離に、小さなため息を漏らす。
「まだだな。……この人が目を覚まさないと、全てが宙ぶらりんのままだ」
それは、患者の容態だけではない。
マサル、吉田、そして――“無労働日”という異常な1日が抱えるすべての問いへの答えが、
この静かな病室の中に眠っているようにも思えた。
久我と大町は、再び神代のバイタルモニターを見つめた。
わずかな反応。けれど、その“わずか”の向こうには、きっと何かがある。
――そんな希望のような、予感のような、気配があった。
神代圭介の枕元に立った久我明弘は、もう一度タブレットを開いた。
表示されたのは、IRMAを通じてトーコが提示してきた追加処置の提案だった。
「脳への低周波刺激と、音響反応テストを組み合わせるか。神経系の深部反応を引き出すのが狙いだな……」
「最新の学会報告じゃあるけど、まだ実証例は少ないわ」
隣で大町澪が慎重に言葉を継ぐ。
「ただ、彼のような状態には……悪くはないと思う。試してみましょう」
「異論なし」
久我は即座に頷き、ICU備え付けの刺激装置に接続を始めた。
トーコの指示は、IRMAを通じて細かく共有されていた。
刺激の周波数、タイミング、音の種類まで――
すでに分析は済んでいるとでも言いたげな、冷静で端的なデータだった。
「よし、始めるぞ」
久我が起動ボタンを押すと、機器が低く唸るような音を立てて作動した。
神代のまぶたが、わずかに震える。
そして――次の瞬間、彼の指先が明らかに意志を伴って動いた。
「反応あり……はっきりした意図性のある運動反応です!」
大町が驚き混じりに声を上げる。
久我もモニターの反応を見ながらうなずいた。
「脳幹の反射じゃない。皮質に反応が来てる……この人、目を覚まそうとしてるぞ」
数秒後、神代の呼吸が浅くなり、再びまぶたが震え――
だが、そこまでだった。
目が開くには至らなかったものの、それは確かな前進だった。
「……あと一歩、か」
久我が小さくつぶやいたとき、ノック音とともに病室の扉が開いた。
入ってきたのは、淡いピンクのケーシーに身を包んだ女性。
通常の事務職員ではない。
「失礼します。本来の事務担当が休務のため、本日は代行として担当しております、看護師の相澤です」
「相澤さん……はい、何か連絡事項ですか?」
相澤はタブレットを手に、少し言いにくそうな表情で言った。
「IRMAからの通達に基づき、本日および今後数時間以内における神代圭介氏への面談に関する処理方針が決定されました」
「決定?」久我と大町がほぼ同時に聞き返す。
「はい。病院管理AI・IRMAの判断により、“吉田マサル”少年に限り、面談を許可。それ以外の面談者については、現時点での状況と神代氏の容体を考慮し、面談は非許可とされています」
「……なるほど」
久我は腕を組みながらゆっくり頷いた。
「一番の当事者だから、か。マサルが“父親”と認識している人間と、神代さんの因果関係――その確認のための優先措置」
「それと同時に、面談そのものが精神的負荷になる可能性を考慮しているということでしょうね」
大町も落ち着いた口調で続けた。
「その場合、トーコ――観察AI側からの判断も入っているかもしれない」
相澤は申し訳なさそうに続けた。
「吉田さんたちにはお伝えづらい内容かと思いますが、私たちとしてもご理解いただけるよう、状況の変化を待ちつつ……」
「大丈夫です、私たちからも説明しますよ」
大町がやさしく笑ってみせた。
久我も小さく頷きながら、再び神代の様子を見つめた。
その静かな寝顔の向こうに、数多の情報と感情が交錯している。
「……目を覚ましたとき、彼はどんな“答え”を持ってるのかな」




