第八章−2:「闇と星の境界線」
太陽が地平線の向こうに完全に沈んだ。
その瞬間から、世界は「本物の夜」を取り戻す。
街灯も、コンビニの看板も、自動販売機のパネルも──ありとあらゆる光源がその役目を停止していた。
「……うわ、マジで真っ暗」
カナが思わず足を止めて、見上げた。
頭上に広がる夜空には、まるでCGのような星の海が瞬いていた。
ビルの隙間からこぼれる明かりも、スマホの光すら抑制されたこの無光の世界で、それは異様なほどの存在感を放っていた。
「……こんなに星って、見えてたんだな」
春日がポツリと呟く。
その声音には、驚きと、わずかな感動が滲んでいた。
「ここ、別に山奥でも田舎でもないのにね」
吉田も目を細めて空を見上げる。
昼間、汗だくになりながら駆け回っていた自分たちの姿が、どこか別の世界の出来事のように思えた。
そして、視線を落とせば、唯一、赤と青の明滅で「人間の営み」を示すもの──それは交差点の信号機だけだった。
「信号、動いてるな」
ー「ええ。あれは政府や自治体が管理する非常用の発電システムで稼働しています」
トーコが即答する。暗闇の中でも彼女の姿はぼんやりとした輪郭を保ち、まるで蛍のように小さく淡く光を発していた。
「やっぱり、止められない“最低限の秩序”ってわけか……」
ー「ただし、公共照明の類は停止対象ですので、安全性に不安のある地域では、夜間の外出は非推奨となります」
「もうちょい早く言ってくれよ……」
吉田が肩をすくめてつぶやいた。
それでも、誰も立ち止まらなかった。
見慣れぬ闇を前に足取りを止めずにいられたのは、目の前にいる仲間たちの気配と、頭上の星空が、どこか奇妙な安心感を与えていたからだった。
「……なあ、もしかしてだけどさ」
春日が、再び空を見上げたまま、ぽつりと呟いた。
「この“無労働日”って、良いか悪いかじゃなくて──“人間が何に頼って生きてきたか”を突きつけられてる気がするんだよね」
沈黙が一瞬だけ、流れた。
誰も否定しなかった。
答えの出ない問いを胸に、それでも彼らは歩き続ける。
次に何が待っているのか、まだ誰も知らないまま──。
「……なんかさ、空気が変わった?」
カナが足を止めて、あたりを見回す。
まだあたりは真っ暗だ。
だが、星の瞬きだけでは説明のつかない“ざわつき”が、確かにそこにあった。
「気温……じゃないな。人の気配?」
吉田も鼻先をすんと動かす。
どこからともなく、足音や小さな笑い声。乾いたキャリーの転がる音が聞こえる。
「……アレ、あの人たち……」
遠目に見える公園のベンチ。
その周辺に、まるで何事もなかったかのように集まり始める人影。
スウェット姿で缶コーヒーを片手に持つ男、やたら高機能なヘッドランプを装備した女性。
ひと目で分かる──夜型生活者たちだった。
彼らはこの日没後から日の出までの無労働日を、唯一自由に活動できる時間帯と捉えていた。
飲食店も開いていない、電車も動かない、ネットもない。
だが彼らは、そんなものには元から頼っていなかった。
「いたよなぁ、普段から夜の方が“元気”な連中」
吉田がやや面白がるように言った。
その横で春日が少し顔をしかめる。
「うーん、なんかこう……狩猟本能? みたいなものを感じるんだよね。昼の世界に抑圧されてきた人たちの、復讐みたいな」
「例えがこわいわよ、春日」
カナはそう言いつつも、少し距離を取って歩き出す。
「トーコ。あの人たちって、労働には……該当しないの?」
ー「現在確認中です。ですが、“物品の取引”や“対価の提示”が伴っていない限り、あくまで自由行動と見なされます」
「……自由ねぇ」
その時、公園の一角で何やら小さなライトが灯る。
段ボールの上に何かを並べる姿──軽食、手作りクッキー、そして「気持ち」でどうぞと手書きの紙。
「……出たよ、“気持ち”」
カナが眉をしかめた。
その反応に、トーコが無機質に言葉を返す。
ー「“気持ち”の額面と品物の受け渡し頻度、及び平均所要時間を照合中。必要に応じて通報されます」
「やっぱ出たよ通報」
吉田が肩をすくめた。
星空の下、確かに“別の世界”が動き出していた。
昼間の混乱が沈静化したかに見えたこの都市は、今度は夜の顔を見せようとしていたのだ。
そこには秩序も法律も、もしかしたら「善意」ですらない何かが、静かに蠢いていた。
春日は小さく息を吐いた。
「……こっからが本番かもな」
夜の街は星明かりの下に沈み、足音すら吸い込まれていくようだった。
サービスエリアを出てからしばらく、春日たちは再び人気のない街路を歩いていた。
ふと、吉田が立ち止まる。
「……あそこ、誰かいるな」
街路樹の影。
ベンチの下に組んだダンボール、その上に並ぶビニール袋や空き缶。
そして、その奥に人影がいくつか──ホームレスだった。
一人の初老の男性がこちらに気づいて目を細める。
薄手の毛布を肩に羽織り、座ったまま笑った。
「こんな日に散歩とは、変わり者もいるもんだ」
春日が戸惑いながら答える。
「いえ……あの、今日は無労働日って、ご存知でした?」
「うん?」
男は首をかしげた。
そしてもう一度笑った。
「ああ、それでか。昼間、缶の回収箱が全然出てなかったから変だなとは思ったんだよ。ニュースとか見ないからねぇ。俺はいつも通り、ってだけさ」
その後ろから、別の中年男性が割り込んでくる。
「知らなかったってヤツも多いんじゃねぇかな。俺ら、通知とか来ないし。あんたらみたいに“休日”を実感できる立場でもないしさ」
その言葉に、カナがしばらく口を閉ざした。
「……そっか。知らずに、“普通の日”として過ごしてる人たちもいるんだ」
吉田も視線を落としたままつぶやく。
「ニュースで“全員休め”なんて言ってても、それが届かない人間がいるなんて、誰も考えないもんな……」
初老の男が小さく笑った。
「ま、ありがたいこともあったよ。普段だったら警察が来るような場所に今日は誰も来やしない。なにせ“働いちゃいけない日”なんだから」
「それって、皮肉じゃないですよね?」
春日が問いかけると、男は少し考えてから、首を横に振った。
「いや、マジな話さ。俺たちは今日も“自分の居場所”を探して歩くだけ。仕事がある人もない人も、どっちにしても今日一日は居場所がなくなるってことかもな」
春日は言葉を失った。
ふと、後ろでトーコが呟く。
ー「観測対象外存在、確認。記録開始」
その冷たい口調に、カナが小さく苛立ちを漏らす。
「人間を“存在”呼ばわりすんなっての……」
それでも、ホームレスの男たちは穏やかだった。
「ま、今日はもう寝るよ。星がよく見える夜ってのは、わりと好きでね」
初老の男が目を細めて夜空を見上げた。
春日たちもつられて視線を上げる。
誰に見せるでもない、誰にも気づかれない星の瞬き。
だが確かに、そこに“何か”があった。
静かに歩き出す春日たちの背中に、ホームレスの男がぽつりと呟いた。
「明日になれば、いつも通りに戻るんだろ? だったら、今日はせめて、ゆっくり寝てくれよな」




