第七章−4:「身元なき少年、情報なき日」
神代圭介の病室は静寂に包まれていた。
モニターに映る心電図の波形は緩やかに安定し、酸素マスク越しの呼吸音も規則的に響いている。
久我は腕を組み、無言のままその様子を見つめていた。
集中治療室から一般病棟に移すにはまだ早いが、峠は越えたと見て良い。内出血のコントロールも順調だった。
「まったく皮肉な話だな……この人が推し進めた制度のせいで、もう一人の患者の情報が一切得られないとは」
久我の独り言に、大町澪がコーヒーの紙カップを片手に応じる。
「本当にね。神代圭介。政府行政局の制度整備課だっけ。
今は皮肉で済んでるけど、マサル君が何か重篤な持病持ちだったら、笑い事じゃない」
久我はふっとため息を漏らし、背後の小机に置かれた少年――マサルの記名がある自転車の写真データを再確認する。
「せめて、あの“マサル”って名前が本名ならいいんだけどな……通称だったら詰むぞ」
「通称って、たとえば?」
「“まーくん”って呼ばれてるから自転車にそう書いてるだけとかさ。下の名前すら正式じゃない可能性ある」
「……あー、それはある。あと家族が過剰に個人情報保護を意識してて、子どもにも本名使わせてないとか」
ふたりは同時に頭を抱えた。
「役所系の登録データベースはIRMA経由で弾かれる。学校関係はそもそもオンラインシステムにアクセス不能」
「SNSも、IPごと死んでるからWi-Fiどころか検索も無理……って、詰んでるな」
「トーコとかいう観察ユニット、使えれば情報持ってそうだけど……」
「接触できたとしても労働許可者じゃないから相手にされないわよ。あれ、“働いてる人間”しか感知しないんでしょ?」
澪の言葉に久我が苦笑した。
「そういう時だけは都合よく働いてるって認定してほしいもんだな」
ふたりはしばし沈黙した。
廊下を行き交う医療スタッフの足音が遠くに聞こえる。
そんななか、久我がぽつりと呟いた。
「――手がかりをひとつずつ潰すしかないな。例えば……あの自転車自体、購入情報があれば販売店経由で逆探知できる可能性もある」
「レシートが残ってるか、防犯登録がされていれば、ね」
「……ただ、そんな照会もIRMA経由になるかもな」
「で、また弾かれると」
もう一度、ふたりは黙る。
それでも、放棄することだけは口に出さない。
久我は立ち上がり、マサルの部屋へと向かった。
「諦めないわよ、あの子。感情がちゃんとある。反応もある。心は、閉じてない」
澪が背中越しに言うと、久我は軽く片手を上げて応えた。
ふたりの静かな闘志が、重たい制度の壁に静かに挑んでいた。




