第七章−3:「記録されざる患者」
「マサル……で、いいのよね。これ、さっき自転車に記名されてた名前」
澪は画面に手入力で名前を打ち込みながら、少年の顔と端末の画面を交互に見比べた。
しかし、表示されたのは空白のままだ。
「政府管理ユニット《IRMA》に接続された医療ネットワーク上では、この名前の登録情報は確認できません」
無機質な音声が冷静に告げる。
「そりゃそうよね。保険証も身分証も持ってない子供に、こんなシステムで何ができるっていうの」
久我は隣の端末を叩きながら、もう一人の患者の情報を表示させる。
そこには氏名、年齢、職業、住所、緊急連絡先に至るまで、詳細な情報が整然と並んでいた。
神代圭介。政府行政局勤務。公共制度整備課所属。緊急医療対象:承認済。
「こっちは完璧に開示されてる。保険証を財布に入れてたから、照合が一発で通ったんだな」
「その差がでかすぎる……」
澪が深くため息をついた。
「この子の身体状態、重症じゃないのに何一つ情報が得られない。ワクチン歴も、既往歴も、家族も分からない」
「普通の医療補助AIなら、緊急措置として類似名検索ぐらいはかけてくれる。けどこのユニット、**“登録者以外の情報抽出は禁止”**の一点張りだ」
久我の声には苛立ちと無力感が混じっていた。
「本来は“個人情報保護の徹底”を目的にしたシステムだろうけど……現場ではただの制限だ。守るべき相手すら把握できない」
マサルはその間、無言のままベッドに腰掛けていた。
聞き耳を立てているようで、表情は曇りも晴れもせず、ただ何かを待っているように静かだった。
「マサル君……君の保護者は、誰か分かるかな? 家に帰れる? 学校は……」
澪が問いかけると、少年はゆっくりと顔を上げ、彼女の瞳を見つめたまま、かすかに首を横に振った。
「……反応はある。けど、意図を読み取ろうとすると彼の側が遮断してしまう感じ」
「環境ストレスか、過去の何かか……ただ、判断材料があまりに少なすぎる」
久我は手元の端末を閉じると、少し声を潜めて言った。
「いずれ“名前すら分からないまま、治療が必要な子供”として正式に保護申請を出すことになるかもな。けど、それを誰が処理できる?」
「……私たちじゃない。たぶん、“システムの管轄”ってことで回される」
「そして、誰もこの子の人生に責任を持てないまま、時間だけが過ぎていく」
久我と澪は黙ったまま、再び少年を見つめた。
傍らの政府ユニット《IRMA》は、静かに青い光を灯し続けていた。
それはまるで、“私はすべて正確に処理している”と無言で告げているようだった。




