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第七章−5:「怒りの矛先」


「ですから、現場から搬送された時点で本人確認書類は所持していなかったんです」

大町澪の声は低く抑えられていたが、明らかに苛立ちがにじんでいた。


向かいに立つ病院事務課の男性職員は、タブレット片手に眉を寄せたまま詰め寄る。


「わかってますよ。でもこのままじゃ、病歴も、保険適用も、面会者確認も何ひとつできない。規定では、未確認の患者には――」


「“仮IDで仮登録し、隔離病室または特別看護室での扱いを推奨”でしょ?マニュアルぐらい、こっちも叩き込まれてるんですよ」

「だったら話が早い。隔離病室に――」


「それが“人として扱われる基準”だって、本気で思ってます?」


澪の言葉に、廊下の空気がぴたりと凍った。


事務職員は言葉に詰まり、少しだけ後ろに引いた。


「あの子、“マサル”くん――仮名かもしれないけど、反応があるんです。自分の意思もある。こっちの質問にちゃんと答えてくれるんです」


「……でも、そういう例外を認め出すと、制度の運用が破綻するんですよ」


「制度の前に、人命でしょ?」


数秒の沈黙。

事務職員はやがてふっと肩を落とした。


「……すみません、きつく言いました」

「こちらこそ。言い過ぎました」


澪と職員は小さく会釈を交わした。


廊下の窓から夕日が差し込み、床に長い影を落としていた。

橙色の光が、苛立ちの残り香を静かに洗い流していくようだった。


「情報制限も、IRMA経由の照会エラーも、ぜんぶ“無労働日”のせいなんですよね……」

「ねえ、逆に“働かない日”を成立させるために、私たちがどれだけ働いてるかって誰かが把握してくれてるんですかね」


「……してくれてたらいいんですけど」


ふたりは苦笑した。

皮肉も愚痴も、正論も疲労も、すべてが同じ場所で宙ぶらりんになっている感覚。

けれど、その中でも踏ん張ることだけはやめない――それが、いまの彼らの役割だった。


「ひとまず、仮登録だけはしておきます。“マサル”くんね」

「ありがとうございます。……どんな名前であれ、今日を生き延びた子ですから」


ふたりは互いの背中を見送りながら、それぞれの業務へと戻っていった。

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