第六章−6 :「越えてはならぬ日・虚無編」
規則正しいタイヤの音が、遠くから近づいてくる。
スピーカーからの警告音。動かぬよう、騒がぬよう、暴言を控えるよう。
春日恭平は、その異様な空気に飲まれながらも、振り返ることなく足を進めた。
背後では、トーコの機械音声が淡々と最後の忠告を発している。
ー「退避時間は残り五分です。群衆行動に関する記録は政府回線を通じて即時転送されます。これにより、あなたがたの“意志”は、制度に記録されました」
春日の隣で、カナがふうっと深いため息をつく。
「……なんだかなぁ。結局、どっちもどっちにしか見えないね」
「少なくとも“どっちかが絶対正しい”とは、俺にも思えないな……」
吉田も苦い表情で頷く。
背後では、トーコと居残ったボランティア、自警団の一部メンバーがまだ何やらやり取りしていた。だが、それも距離が開くにつれ、まるで遠くで再放送されている過去のニュース映像のように、輪郭を失っていった。
「……置いてっちゃっていいのかね、あの子」
「大丈夫。あの子、“感情”ないから」
「……それ、逆にちょっとかわいそうじゃない?」
数分も歩くと、見覚えのある道路標識が見えてきた。
「サービスエリア? こんなとこにあったんだな」
「……って、車いないじゃん。そりゃそうか、交通機関止まってんだもんね」
春日が小さく苦笑すると、カナが指さす。
「いや、一般道側の駐車場はぎっちり埋まってる。見て」
坂道を少し登ると、そこには奇妙な光景が広がっていた。
高速側の広大な駐車場は、空。
だが、一般道から入れる側のスペースは満車で、歩行者がやたら多い。
家族連れ、カップル、シニアグループ、ペット連れ――
まるで、何も起きていない日の午後のように、賑わっていた。
どこかでギターを弾く音すら聞こえる。
春日が目を丸くする。
「……みんな、普通に遊びに来てる……のか?」
「いや、ちょっと待って。あの子ども、トイレで手洗ってるのに水出てないよ」
カナがぽつりと呟く。
乾いた手を見つめる女の子。手に付いた泡を拭うため、母親のバッグから取り出されたウェットティッシュの最後の一枚。
「……お金を払えば、何でも解決できると信じて疑わない連中よ」
カナの口調が、少し尖る。
「お金さえ持ってくれば、食べ物があって、水があって、冷房が効いてるとでも思ってんの? 誰が、どうやって、それを支えてたかなんて一回も考えたことないんでしょうね。」
吉田が、肩をすくめる。
「まぁ……俺もこっち側だったかもな。今朝までは」
「“だった”だけマシ。今も“そう”な人、あそこにいっぱいいるよ」
カナの指す先、売店の前には数人の大人たちが集まり、閉まったシャッターに向かって文句を垂れていた。
「なんだよ、空いてないじゃん!」
「トイレも詰まってるし、どうなってんだよこれ」
「サービスエリアって、サービスしてないのかよ!」
春日が、思わず顔を背ける。
「うわあ……この状況で文句言ってる人、マジでいるんだ……」
カナがふっと笑った。
「そういう人たちを接客してたんだよ、私たちは。毎日、ずーっとね」
それは怒りでも呆れでもなく、ただ一つの――諦め。
春日は静かに辺りを見渡す。
暑さで汗ばんだ空気。トイレの順番待ち。水が出ない蛇口と、自販機の「使用停止」表示。
それでも人は、いつも通りを求めて集まってくる。
「……ねえ、今日って……“休日”なんだよな?」
春日の呟きに、カナが笑った。
「そう。働いてる人がいないだけで、客はちゃっかり来てる。皮肉な話だよ」
どこかで風鈴の音が、カランと鳴った。
風は止まない。
止まらないまま、確実に日が傾いていた。
カナは歩を止めた。
空っぽの高速側と、ぎゅうぎゅう詰めの一般道側。
ふと、目に留まったのは、停まった車の前で腕を組んで立ち尽くす初老の男性。
その横で、スマホの圏外表示を凝視する若者。
売店の前では、日傘を差した主婦らしき女性がため息を漏らしていた。
彼らの目には――焦りも怒りもない。代わりに、ひたすら「不満」だけがあった。
「……ねぇ」
カナが声を上げた。
「アンタら、何しにここ来たの?」
男が振り向く。
「は? 何言ってんだお前……」
「何もないのに、よく来る気になったね。店も閉まってる、ガスも電気も水も止まってる。来る前にわかんなかった? 想像もできなかったの?」
女が鼻で笑った。
「はぁ? ちょっと何様?」
カナは一歩、踏み込む。
「サービスエリアは店があるからサービスエリアなんだよ。サービスしてる人がいなきゃただのコンクリートの空き地だよ。
それでも来るってことはさ、“誰かが何とかしてくれる”って思ってる証拠だよね?」
沈黙。だが次の瞬間、初老の男性が眉をひそめて噛みついた。
「何だお前! 説教しにきたのか? 他人に偉そうにモノ言ってんじゃねえよ!」
「偉そうに言ってるつもりはないよ。でも、わかってほしいとは思ってる。働く人がいるから、アンタらが『普通の休日』を過ごせるんだよ。その人たちが一日休んだだけでこの有様。自分の無力さ、少しは考えたら?」
若者がスマホを投げるようにポケットへ突っ込み、舌打ちした。
「何言ってんだよ。てめぇのストレスぶつけてんじゃねーよ。偉そうに!」
女も食ってかかる。
「自分だってサービス業の端くれなんでしょ? 接客ってそういうもんじゃないの? 感謝されたいなら向いてないよ、接客」
その言葉に、カナの顔が強張る。
「……あんた、私が今日、給料もらってるとでも思ってんの?」
吉田が慌てて間に入る。
「おい、やめようぜ……カナちゃん、もういいって」
だがカナは聞いていない。
「言ったよね? 今日、働いてる人は誰一人いない。だから店も閉まってるし、信号も非常用。これ以上“何かが動いてる”って期待するの、やめたら?」
男が一歩、詰め寄った。
「てめぇ、さっきから偉そうに――」
「おいおい、マジでやめようって!」
今度は春日が割って入る。彼ですら、眉をしかめていた。
「怒りたい気持ちはわかるけど、話が通じる相手じゃない。ほっとこう。無駄だよ、こういうのは」
だがカナの眼には、かすかな涙がにじんでいた。
「……これが現実なんだね。何も考えてない人ほど声が大きくて、被害者ヅラして、感謝もせず、理解しようともしない。
……そういう人に、何年も笑顔で接客してきたんだ、私」
沈黙。
誰も、何も言えなかった。
ついにカナは踵を返し、駐車場を背に歩き出した。
怒りでもなく、失望でもなく――ただ、深い疲労感に満ちた歩みだった。
吉田も春日も、黙ってその背を追うしかなかった。
彼らの背後で、サービスエリアの人々は依然として騒いでいた。
シャッターの前で、蛇口の前で、スマホの画面の前で。
誰も、自分が“加害者”かもしれないとは、思っていない。




