第六章−7 :「越えてはならぬ日・虚無編−2」
「……ごめん、ちょっと、ひとりにして」
カナはそう言い残し、サービスエリアの裏手にある芝のスペースへと足を向けた。
目線を合わせるでもなく、怒るでもなく、ただ、感情をどこかに置いてきたような歩き方だった。
日が傾き、地平線が赤く染まる。
その光に照らされた背中は、どこまでも遠くに見えた。
吉田が腕を組み、苦い顔をしたまま呟く。
「……怒るだけの元気も、もうないんだろうな」
「ですよね……」
春日の声も沈んでいた。
空元気すら出ない自分に、少し嫌気が差していた。
ふたりは一定の距離を保ったまま、カナを見つめていた。
何か声をかけようとするが、言葉が浮かばない。
やがて吉田が、苦笑混じりに呟いた。
「なぁ、あの時の“カフェごっこ”。あれ、ちょっと楽しそうだったよな」
「はい……あの時は、なんか、救われた感じがありましたよね」
春日はうなずく。
「カナさん……本当は、ずっと限界だったのかもしれないですね。怒りっぽいっていうより……自分を壊してないと、保てなかったんじゃないかなって」
吉田の目が伏せられる。
「俺さ、接客される側で……常連面してたクセに、カナちゃんの本当の顔なんて、なーんも見えてなかったんだなって思ったよ」
春日が静かに返す。
「でも、ちゃんと気にかけてたじゃないですか。覚えてるし、来てたし……気持ちがあったのは本当ですよ」
「……だといいけどな」
短く会話が途切れた。
その時、トーコが背後から静かに歩み寄ってきた。
相変わらず無表情だが、いつになくその動きには慎重さがあった。
ー「柴田カナの精神状態は、臨界点に近づいています。継続的なストレス下にある中で、不理解と侮蔑に晒されたことが直接的な要因です」
吉田が眉をひそめる。
「おい……言い方ってもんがあるだろ」
ー「私は事実を述べています。ですが、彼女が誰かに必要とされていると再認識できれば、持ち直す可能性はあります」
春日はふと、カナの方を見た。
彼女はしゃがみ込み、草の上で小石を指で弄んでいるだけだった。
まるで何も考えていないようで――だが、その無言が、あまりにも痛々しい。
「……俺、行ってきます」
そう言って、春日はふらりと歩き出した。
吉田が続く。
「じゃあ、俺も。トーコ、お前は……ここで様子見ててくれ」
ー「了解しました」
春日は、しゃがむカナの少し後ろに腰を下ろした。
何も言わない。ただ、隣にいる。
やがて、カナがぼそっと呟いた。
「……どんなに誠実にやってても、今日みたいな日には全部ひっくり返されるんだね」
「……」
「この世に“努力が報われる日”があるなら、“報われないことがはっきりする日”もあるってことか」
春日はしばらく考えてから、返した。
「でも、カナさんがやってきたこと、報われないって決まったわけじゃないと思うんです。
たまたま今日は、地面の裏側の顔を見せられただけで」
カナは小さく鼻で笑った。
「慰めるの下手すぎ」
「そうですね……下手です。バカみたいに素直なだけで」
「……でも、ありがとう」
そこに、吉田も歩いてきた。
「おい、休憩まだ終わってねーぞ。…って言うの、俺の担当でいい?」
カナが、少しだけ笑った。
「……はいはい。ありがと。圭吾さん」
三人はしばらく沈黙したまま、夕焼けを見つめた。
一日の終わりが近づいていた。
空は、少しずつ紫へと色を変えてゆく。
ほんの一瞬だけ、世界が静かに感じられた。
あの日常が――どれだけ特別だったかを知った、越えてはならぬ日の、あるひとときだった。




