第四章ー6:「越えてはならぬ日」
――火種の周囲
「それでは、今日一日、他者のために手を差し伸べることも許されないと?」
炊き出しリーダーの問いに、自警団の男は即答できなかった。
代わりに別の団員が前に出て、紙を広げて見せた。
「この通達を見ていただきたい。政府からの文書ではなく、民間協議体のガイドラインだが、自治体の判断で今日の行動基準として採用されている。ボランティア活動については“グレー”とある。グレーということは、白ではない。だから我々は確認と指導に来ている」
「白黒ついていないものを“黒寄り”で断じていいのか?」
今度は春日が小声で呟いたが、前線の会話に混ざることはなかった。
そのとき、会場の外れで小さな声が上がった。
「……誰か、具合悪そうだ」
「倒れてる人がいる!」
人だかりの向こう、折り畳み椅子に腰掛けていた初老の女性がゆっくりと前に崩れるように倒れた。
ボランティアの一人が慌てて駆け寄り、別の人が声を張り上げる。
「看護師の方、いますか! 救急車……!」
その場の空気が一瞬で変わる。
食料を配る手も、声を荒げていた自警団の口も、すべてが止まった。
「それ見ろ。人を助けようとしたからじゃないか」
と、自警団の一人が言ったが、その言葉に誰も反応しなかった。
代わりに、炊き出しのスタッフが静かに女性にタオルをかけ、体位を整え、周囲を落ち着かせながら叫んだ。
「……誰か、救急要請を!」
しかし、その言葉にもまた、別の困難があった。
今日は“無労働日”。緊急対応以外、通信網の運用は最小限に制限されている。
「連絡手段は……?」
「トランシーバーしかない……。使えるのか?」
焦りの中、カナが一歩前に出た。
「使わせて。非常時のマニュアル、確認できてるから」
吉田がその横に立ち、春日はトーコの方を一瞬だけ見た。
無表情のまま、彼女はほんのわずかに頷いた――“まだ介入の時ではない”という、無言の確認。
そして春日は、この一連のやり取りの中で、かすかな既視感を覚えていた。
社会の正義が、個人の善意を飲み込む瞬間。
あの日、職場で感じた居心地の悪さと、どこか似ていた。
やがて遠くでサイレンの音が、地を震わせるように近づいてきた。
「――過度な医療行為は、労働と見なす。あくまで善意による応急処置の範囲を逸脱すれば、それは違法行為に該当する」
灰色の腕章をつけた男が、あえて全体に響くように語気を強めた。彼の周囲では、赤いラインのついた同じ制服の者たちが数名、無言でこちらを見据えている。これまで患者に応急手当を施していた医療ボランティアの女性たちが、一瞬手を止めた。空気が凍りつく。
「……どうすれば、そういう解釈になるのかしらね」
カナがぽつりと呟くが、声に力はない。さきほどの応酬ですでに精神を削られていた。
その時だった。
ふっと、風もないのにざわりと空気が揺れたような気配がした。
ふと自警団のリーダー格らしき男が目を細め、何かを見た。
「……トーコ……?」
ぽつりと誰かが呟く。視線の先、群衆の外れに――黒いワンピース姿の少女が立っていた。トーコだ。
その存在を見た瞬間、自警団員の間に明らかな動揺が走った。
「特別監視ユニットか……」
男はわずかに舌打ちをし、眉間に皺を寄せると、部下に指示を出した。
「撤収するぞ。この場にトーコがいる以上、我々の裁量での判断は控えるべきだ」
制服の集団は、来た時と同じように秩序立って引き下がっていく。群衆の中から安堵の吐息が漏れた。カナも無言で肩の力を抜く。春日と吉田が視線を交わし、わずかにうなずいた。
しばらくして、トーコが前へと進み出た。
ー「ご安心ください。私は直接、労働の有無を判定するための存在ではありません。しかし、先ほどの言い争いにはいくつかの論点と構造上の問題がありました。簡潔にご説明しましょう」
少女の声は静かだったが、自然と人々の注意を集めた。
ー「まず第一に、ボランティア行為における“善意”と“労働意志”は法的に切り離されて扱われるべきですが、現場の解釈によっては混同される余地があります。今日のような日――“無労働日”においては、意志と行為が過剰に結びつけられるため、特に危険です」
彼女は少し間を置いた。
ー「第二に、言い争いがヒートアップした理由は、双方が“正義”という感情的なラベルを根拠としていた点にあります。正義には論理性が欠けることがあり、時に争いの火種になります」
人々は静かに聞き入っていた。中には首を縦に振る者もいる。
ー「最後に。自警団の主張は規約の一側面に準じていますが、社会的合意と現実的な必要性を無視した部分がありました。一方で、こちらのボランティア活動も、規定された医療行為の枠を曖昧にしていたのは事実です」
言葉に批判はなかった。ただ事実として、整然と並べられていた。
トーコは少しだけ目を伏せ、春日たちへと視線を向けた。
ー「……この日の境界は、非常に不安定です。どちらが悪いとは言い切れませんが、“越えてはならぬ日”には、善意でさえも許されない瞬間があるということ――ご理解いただければと思います」
そして彼女は、ひらりと翻るように背を向けた。
どこか寂しげな後ろ姿に、誰も言葉を返すことはなかった。




