第四章−5:「執行と善意」
――混沌の予兆
「この炊き出しは労働にあたる可能性がある。我々は住民からの通報を受け、確認に来た」
自警団を名乗るグループの一人が、やや甲高い声で現場を制した。
最初に口火を切ったのは、炊き出しを主導していた男性だった。
「誰かが勝手に通報したのか……?」
低く呟いたが、その声に対し自警団の男は明言を避けた。
「本日、すべての労働は原則として禁止されています。ボランティア活動であっても、それが“社会的価値を発生させる労力の提供”と見なされるなら、禁止事項に抵触します」
あくまで理論で押し切ろうとする態度に、周囲の雰囲気がわずかにささくれだった。
そこで、吉田圭吾が小さく息を吐き、前へ出た。
その瞬間――
彼の脳裏には、今朝のことが不意に蘇っていた。
* * *
午前九時過ぎ。
駅前の公園脇。
大通りに差しかかったところで、彼は自警団の詰所前を通りかかった。
そのとき、リュックの中から落ちかけていた封筒が目に入ったのだ。
『個人事業廃業届(控)』
書きかけのまま、数年放置していた書類だった。
かつて本気で考えた、カフェ開業。
現実に打ちのめされ、実現することなく消えた夢。
その名残が、なぜか今日という日に持ち歩かれていた。
“手放すために持っていた”――それが正直な気持ちだった。
だから、紙の角が見えていたときも、無意識に見せびらかすようなつもりは一切なかった。
「そこのあなた、今何か書類を持っていましたね? 労働関係のものでは?」
そんなふうに声をかけられたのは、完全に不意打ちだった。
男たちは制服ではなかったが、揃いの腕章をつけていて、妙な権威を背負っていた。
ひとりが封筒を覗き込み、言った。
「廃業届……? 開業準備では?」
「違う。もうやめた、やらなかっただけだ」
「でも、これは労働に関わる書類ですよね。行動によっては違反と判断される可能性があります」
「……じゃあ、紙を持ってるだけで労働になるのかよ」
吉田はそのときの会話を、今も喉の奥に引っかかった小骨のように感じていた。
* * *
現在。
その男――朝、彼に職質をかけた自警団員と、目が合った。
「……またあんたか」
吉田は静かに言った。
「……?」
「今朝、俺の紙切れを“労働準備行為”とかぬかして、違反ギリギリだと説教してきたのはあんたじゃねえか」
その言葉に、他の参加者たちもざわついた。
男は少し戸惑いを見せつつも、すぐに態度を戻す。
「我々は公共秩序の維持を目的としており、日中における労働行為やその準備を見逃すわけにはいかない」
「“準備”ね……。だったら、靴を履いて出かけてるやつ全員取り締まれよ」
吉田は皮肉を込めて言い放った。
炊き出しリーダーが彼に目配せしながら、自警団に向き直った。
「正義ってのは、どこにでもある。だが、あんたらの言う正義は、腹の減った人間よりも優先されるってことか?」
それに対して、別の自警団員が口を開く。
「社会はルールによって成り立っている。今日という一日は、そのルールを示す重要な節目です。感情論で逸脱してはならない」
火花のように飛び交う、言葉の攻防。
だが、いずれも“正論”の仮面を被っている分だけ、余計に決着がつかない。
トーコは、少し離れた木陰で観察を続けていた。
表情は変わらず、無干渉。
彼女にとって今のこれは、“観察対象同士の思想的干渉”に過ぎなかった。
そして、まだ誰も気づいていない。
この衝突が、さらに大きな問題へと連鎖していく可能性を孕んでいることに――。




