第四章−3:「静かな片隅の記憶」
味噌汁の鍋が一段落し、仕込みを終えたカナは、湯気の立ちこめる一角に座って、ふぅと息を吐いた。周囲では配膳や呼びかけの声が飛び交い、子ども連れの女性が皿を抱えて笑っていた。
そんな賑わいの中で、不意にカナの脳裏に浮かんだのは、昔の仕事帰り――深夜のファミレスの厨房だった。
「柴田さーん、シフト表ズレてますよ、明日の分」
若いアルバイトの子が、申し訳なさそうに駆け寄ってきた。
「わかった、直しとく。でもあんた、明日授業だろ。早く帰って寝な」
自分の荷物も片づけぬまま、カナはその子にロッカーの鍵を渡して背中を押した。
それが「客のため」でも「上司の指示」でもなく、ただ目の前にいる誰かを気遣っただけの瞬間だった。
けれど、そういう些細な行為の積み重ねが、彼女の働く意味だったような気がする。
給与明細の数字より、誰かに「ありがとう」と言われることのほうが――本当は、心に残っていた。
「……そういえば、私もあの頃は結構、頑張ってたんだっけね」
隣に座っていた中年女性が、湯呑みをカナに差し出した。
「お疲れさま。あなた、接客やってた人でしょ?」
「どうしてわかるんです?」
「手つきと、表情と、余計なひと言が出ないところ」
カナは、わずかに目を見開き、笑って頷いた。
「…ああ、もう癖みたいなもんで」
再び鍋に戻ろうと立ち上がると、近くで吉田が声を上げた。
「こら恭平、鍋の底はかき混ぜすぎるな、焦げる!」
「……知ってた。ちょっとしたトラップだよ、これ」
「お前さぁ……!」
二人のやり取りに、周囲の人々が少し笑った。
それがどこか温かくて、カナは自分の胸のあたりが、ふわっと軽くなるのを感じた。
「仕事じゃないのに、こんなに人の声が聞こえるなんて」
そのつぶやきは、誰にも届かないほど小さかったが、彼女自身にははっきりと届いていた。




