第三話 いつも少し離れたところに
あらぎ島には、ちょっと変わった「アイドル」がいる。
歌わない。
踊らない。
テレビにも出ない。
それなのに、あらぎ島に現れると、なぜかみんなが「あっ、かもしかちゃんや!」と喜ぶ。
その名も――かもしかちゃん。
山からひょっこり姿を見せたり、田んぼの近くを歩いていたり、展望台のあたりにちょこんと座っていたり。
人間のそばにベッタリ寄ってくるわけではない。
むしろ、いつも少し離れたところから人間たちを眺めている。
そんな気まぐれなところも含めて、あらぎ島のみんなに愛されている人気者だった。
けれど。
かもしかちゃんが、あらぎ島へやって来る理由を知っている者は、ほとんどいない。
それは、ずっと昔のことだった。
◆
ある夏の日。
あらぎ島に激しい雨が降った。
朝から降り続いた雨で、川の水は増え、あぜ道にも水が流れていた。
雨が少し弱くなったころ。
レッドは、あらぎ島の様子を見回っていた。
水の流れや田んぼの様子を確認しながら歩いていると、ふと、あぜ道の脇で何かが動いた。
「……ん?」
レッドが足を止める。
そこにいたのは、小さなかもしかだった。
まだ子どもだった。
全身ずぶ濡れで、細い足を震わせている。
周囲を見回しても、母親らしい姿はない。
「……お母ちゃんとはぐれたんか?」
レッドがゆっくり近づく。
小さなかもしかは警戒して、一歩後ろへ下がった。
「大丈夫や。なんもせぇへん」
レッドはそれ以上近づかなかった。
大きな体を地面にどっかり座らせ、小さなかもしかから少し離れた場所で様子を見る。
しばらくすると――
ぐぅ。
小さなお腹が鳴った。
「……腹減っとるんか?」
レッドは立ち上がった。
「ちょっと待っとれ」
それからレッドは、食べられそうなものを探した。
水も用意した。
濡れた体をそのままにしておくのも気になって、タオルを持ってきて、嫌がられないように少しずつ体を拭いてやった。
もちろん、レッドは動物の世話なんてしたことがない。
「これ……食べるんかな?」
小さなかもしかを見る。
「……あかんか?」
別のものを持ってくる。
「じゃあ、こっちは?」
また首をかしげる。
「うーん……難しいなぁ」
力仕事なら誰にも負けないレッドだったが、小さな動物の世話となると、完全に手探りだった。
それでも。
雨が降るたびに、レッドはその小さなかもしかのところへ通った。
母親が近くにいないか探しながら。
お腹が空いていないか確認しながら。
濡れていれば体を拭いてやりながら。
「今日は昨日より元気そうやな」
「もうちょっと食べるか?」
「寒ないか?」
レッドは、まるで大きな弟か妹でも世話するように、その子を気にかけていた。
そして数日後。
ついに、母親らしいかもしかが見つかった。
「おったぞ!」
レッドが声を上げる。
小さなかもしかは、母親の姿を見つけると、一目散に駆けていった。
母親も、その子を迎えるように近づいていく。
レッドは少し離れたところから、その様子を見ていた。
「……よかったなぁ」
それだけ言って、レッドは笑った。
小さなかもしかが一度だけ振り返った。
けれど、レッドはもう背を向けて歩き始めていた。
特別なことをしたつもりはなかった。
助けたというつもりもなかった。
ただ、困っている小さな命がそこにいたから、できることをした。
それだけだった。
◆
それから、何年もの時間が流れた。
あの小さなかもしかも、すっかり大きくなった。
そして、いつの頃からか――
あらぎ島の人気者になっていた。
「かもしかちゃんが来たで!」
「今日もおるやん!」
「あっ、こっち見た!」
人が集まると、少し離れたところから様子を眺める。
カメラを向けられると、たまにじっと立ち止まる。
かと思えば、気が向かない日は、何事もなかったように山へ帰っていく。
そんな自由気ままな姿が、いつしか「あらぎ島のアイドル」と呼ばれるようになった。
もちろん、歌も踊りもしない。
ただ、そこにいる。
それだけで、みんなが笑顔になる。
それが、かもしかちゃんだった。
そして。
そんなかもしかちゃんには、もうひとつの習慣があった。
あらぎ島に来ると、ときどきレッドの姿を探すこと。
◆
ある日の夕方。
あらぎ島の田んぼで、レッドが一人で仕事をしていた。
稲の様子を見たり、あぜ道を整えたり。
汗をかきながら、黙々と田んぼ仕事を続けている。
「よいしょっと……」
大きな体で、せっせと働くレッド。
すると。
少し離れた場所に、かもしかちゃんが現れた。
レッドはまだ気づいていない。
かもしかちゃんは、じっとレッドを見る。
昔と変わらない、大きな赤い恐竜。
力仕事をさせれば、たいていのことは何とかしてしまう。
でも――
昔から、小さな動物には妙にやさしい。
かもしかちゃんは、ゆっくり一歩だけ近づいた。
もう一歩。
でも、それ以上は近づかない。
レッドがふと顔を上げた。
「あれ?」
かもしかちゃんと目が合う。
「……なんや。かもしかちゃんか」
かもしかちゃんは何も答えない。
もちろん、答えるわけもない。
レッドは少しだけ笑った。
「散歩か?」
かもしかちゃんは、ほんの少し顔をそむけた。
「まあ、ゆっくりしてけや」
レッドは、それ以上何も言わなかった。
また田んぼ仕事に戻る。
かもしかちゃんも、その場に残った。
近すぎない。
遠すぎない。
昔、雨の日に出会ったときよりは少し近い。
でも、今でもやっぱり――
いつも少し離れたところにいる。
それが二人には、ちょうどよかった。
レッドは知らない。
あの雨の日のことを、かもしかちゃんがどこまで覚えているのか。
かもしかちゃんも、レッドに何かを伝えようとはしない。
恩返しをしたいわけでもない。
特別な関係になりたいわけでもない。
ただ。
あらぎ島に来たとき、レッドが一人でいると。
なんとなく、近くに行きたくなる。
そしてレッドも。
そんなかもしかちゃんが近くにいることを、いつの間にか当たり前のように思っていた。
「……おるんやったら、そこにおれよ」
レッドがぽつりと言う。
かもしかちゃんは動かない。
夕暮れのあらぎ島。
レッドは田んぼ仕事を続ける。
かもしかちゃんは、その少し後ろで静かに佇んでいる。
二人の間に、会話はない。
でも――
それでよかった。
今日も、かもしかちゃんは。
いつも少し離れたところにいる。




