第13話 読書日和のはずだった
秋のある日の午後。
村の集会所で、ちょっとしたイベントが開かれていた。
「今日はここまででええやろ」
片づけを手伝っていたブルーは、時計を見て立ち上がった。
「悪いけど、俺は先に帰るわ」
「なんや、珍しいな。用事でもあるんか?」
レッドが尋ねる。
ブルーは、少し嬉しそうに答えた。
「今日は、ずっと楽しみにしてた本が届くんや」
集会所を出ると、秋の空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。
やわらかな日差しに、心地よい風。
まさに読書日和と呼びたくなるような午後だった。
けれどブルーは景色を楽しむ余裕もなく、届く本を思い浮かべながら足早に家へ向かった。
家には、一つの荷物が届いていた。
「……来た」
箱を開ける。
中から出てきたのは、かなり分厚い一冊の本だった。
古びた表紙を、ブルーはそっと撫でる。
『知られざる紀州山里紀行』
数年前に絶版になった、紀州の山里を旅した著者の紀行随筆集。
旅が好きなブルーにとって、いつか読んでみたいと思っていた憧れの一冊だった。旅先で写真を撮るのが好きで、写真を始めたのも、旅の風景を残したいと思ったことがきっかけだった。
古書店を回っても、ネットで探しても見つからず、友人のつてまで頼って、ようやく手に入れた本だった。
「……やっとや」
ブルーは嬉しそうに本を眺めた。
お茶を用意し、椅子に座る。
「今日は、これをじっくり読むぞ」
表紙を開いた、その瞬間――
ピンポーン。
「……?」
玄関を開けると、おやっさんの奥さんが立っていた。
「アポロの唐揚げ買ってきたから、一緒に食べよ!」
返事をする間もなく、奥さんは家に入り、本を見つける。
「うわ、この本なに? えらい分厚いなぁ! あんた、こんなん読むん? へぇー、紀州の山の本? そういや昔な、私も旅行行ったとき――」
しゃべりながら唐揚げを食べ、ひとしきり話すと、
「ほな、ゆっくり本読んでなー!」
と、元気よく帰っていった。
静かになった家で、ブルーは唐揚げを一つ口に入れる。
「……おいしい」
気を取り直して、本を開こうとした。
そのとき――
コンコン。
「ブルー、ちょっとええか?」
レッドだった。
「悪い、倉庫の戸が外れてもうて。直すの手伝ってくれへん?」
ブルーは本を閉じた。
「……わかった」
倉庫の戸を直して家へ戻る。
すると今度は、窓の外から声が飛んできた。
「ブルー! これ、ちょっと運ぶの手伝ってくれへん?」
イエローだった。
荷物を運んで戻ってくると、机の上には小さな泥の跡までついている。
ブルーは布巾でそれを拭き、本を守るように抱えた。
「……次は、絶対に読む」
だが、その直後。
「ブルー! 田んぼ手伝ってくれへんか!」
グリーンだった。
返事をする前に戸が開く。
「悪い、急ぎなんや!」
ブルーはしばらく無言でグリーンを見つめた。
そして、ゆっくり本を閉じる。
「……わかった」
田んぼの手伝いを終えて家に戻ると、もうクタクタだった。
椅子に座り、本を見る。
まだ一ページも読んでいない。
「今度こそ……」
本を開いた瞬間――
ガシャーン!
窓の外で大きな物音がした。
物干し台が、庭の鉢植えを巻き込んで倒れている。
「……なんでや」
そこへホワイトが駆け込んできた。
「ブルー、ごめーん! ボール飛んでこんかった?」
ブルーは無言で、倒れた物干し台を指差した。
「あ……」
どうやら近所の子どもたちと野球をしていて、ボールがベランダへ飛び込んだらしい。
ブルーとホワイトは、倒れた物干し台を起こし、散らばった鉢や土を片づける。
幸い、本は無事だった。
「ほんまごめ~ん!」
ホワイトはボールを拾うと、走って出ていった。
ブルーは本を胸に抱えた。
「……ここでは読めへん」
そう言って、家から少し離れた見晴らしの良い丘へ向かった。
木陰に、ぽつんとベンチがある。
そこからは、あらぎ島の景色がよく見えた。
誰もいない。
静かだった。
「……ここなら」
ブルーはベンチに座り、本を開いた。
ページをめくる。
ようやく文章に入り込めそうだった、そのとき――
遠くで防災無線が鳴り響いた。
『山道付近で倒木が確認されました。通行する方はご注意ください』
その直後、グリーンが息を切らして駆けてきた。
「ブルー! 山道の途中で木が倒れて、道をふさいでもうたんや。役場の人が来るまで、通る人を止めときたい」
ブルーは本を閉じた。
「……わかった」
山道へ向かうと、倒木のそばで村人たちが立ち往生していた。
そこへ、坂の上から自転車が勢いよく下りてくる。
「危ない!」
ブルーは道の中央へ走り出し、自転車を止めた。
乗っていた少年が転びかけ、ブルーが腕をつかんで支える。
その直後、倒木の枝が大きく揺れた。
「下がって!」
ブルーは少年と村人たちを安全な場所へ移動させる。
枝が地面に落ち、乾いた音が山道に響いた。
しばらくして役場の人が到着し、通行止めの札を立てた。
「助かったわ。ブルーがおらんかったら危なかったで」
「……別に」
ブルーはため息をついた。
「……また読めへんかったな」
そのときだった。
空が急に暗くなった。
冷たい風が吹き、雨粒が落ちてくる。
「……うそやろ」
さっきまで、あんなに晴れていたのに。
ブルーは慌てて本を胸に抱え、屋根のあるバス停へ駆け込んだ。
そこには、買い物帰りのおやっさんの奥さんと、雨宿りをしている子どもたちがいた。
「ブルー、その本濡れてへん?」
「……大丈夫」
その瞬間、強い風が吹いた。
本に挟んでいた栞が、ふわりと飛ばされる。
「あっ!」
栞は道路脇の水たまりへ落ちた。
子どもが拾おうと走り出したため、ブルーはとっさに抱き止めた。
代わりに、自分の靴を水たまりへ踏み込ませる。
「危ないで」
ブルーは子どもを安全な場所へ戻すと、濡れた栞を拾い上げた。
それは、古書店の店主が本に挟んでくれた手書きの栞だった。
そこには、
『大切に読んでくれる人のもとへ』
と書かれている。
ブルーはしばらく、その文字を見つめた。
濡れた栞を本に戻すことはせず、持っていたハンカチにそっと挟む。
そして、本とは別にカバンへしまった。
やがて雨が弱まり、空は夕暮れ色に染まっていった。
ブルーはようやく家へ戻った。
濡れた靴下を脱ぎ、本を机の上に置く。
表紙は無事だった。
栞はハンカチに包んだまま。
「……今日は、何やったんや」
深く息を吐く。
それでも、もう一度だけ本を手に取った。
「今度こそ」
椅子に座り、本を開く。
そのとき――
「ブルー!」
そんな声が聞こえた気がした。
ブルーは顔を上げる。
けれど、誰もいない。
「……気のせいか」
そう呟いて、また本へ目を落とす。
一行目。
二行目。
三行目。
今度こそ、静かだった。
気がつけば、外はすっかり暗くなっている。
本は、まだ最初の数ページ。
それでもブルーは、ようやく読むことができた。
「……一ページも読めへんかと思った」
小さく笑う。
その頃、玄関の外ではレッドが立っていた。
「ブルー!」
呼びかけようとして、レッドは口を閉じる。
家の中を見る。
ブルーは本を読んでいる。
レッドは、昼間のことを思い出した。
「今日は、ずっと楽しみにしてた本が届くんや」
嬉しそうにそう言っていたブルー。
何年も探していた本。
雨の中でも大事に抱えていた本。
そして今、やっと読んでいる。
レッドは後ろにいたグリーンとイエローを振り返った。
「……今日は、もう帰ろか」
「ええんか?」
「せや。ブルー、やっと読めてるみたいやから」
イエローも、そっと家の中を覗いた。
「……邪魔したらあかんね」
三人は、声を立てないように玄関から離れていく。
レッドは最後にもう一度だけ振り返った。
「ブルー、ゆっくり読んでな」
その声は、今度はブルーにも届いた。
ブルーは本から顔を上げる。
窓の外を見る。
遠ざかっていくレッドたちの背中。
ブルーは少しだけ笑った。
そして――
三人に向かって、小さく手を振った。
レッドたちも気づいて、振り返す。
それだけだった。
ブルーは机へ戻る。
ハンカチに包まれた栞をそっと取り出してみる。
もう、乾いていた。
「……これなら、ええな」
栞を本に挟む。
今日読んだところに、そっと戻す。
そして、もう一度ページを開いた。
秋の夜。
外は静かになっていた。
ブルーは何年も待った一冊を膝に置き、ゆっくりとページをめくる。
今度は、誰にも邪魔されない。
――読書の秋は、まだ始まったばかりだった。
今回は「読書の秋」をテーマにした一話です。
実は私自身、今ちょうど本を一冊借りてまして。
「読まなあかんなぁ」と思いながら、なかなか読む時間が取れず……。
いまだに返せずにおります。
はてさて、困ったなぁ。
そんな自分の気分から、今回のお話を思いつきました。
読書の秋なのに、なかなか本を読む時間がない。
そんな経験、みなさんにもあるのではないでしょうか。
気軽に読んでいただけたら嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。




